11月10日(土)11日(日)の2日間、築地本願寺の文化財登録と本堂修復記念行事として『キズキナサイ2012』が開催されました。
ちょっと耳慣れない『キズキナサイ』という言葉、「築地の由来に・食のまち築地の魅力に・いかされている命にーキズキナサイ」ということで、「築きな祭」とも書き、地を築くという築地の地名になぞらえて、いつもそこにある大切なことに「気がつく」という意味があるのだそうです。
今では市場のイメージが強い、この築地ですが、その名の通り、埋め立て地であることは、ご存知の方もいらっしゃるかと思います。
けれども、実は「本願寺を建築するために埋め立てられた」とも言えるのは、ご存知でしたでしょうか?
その昔、江戸に幕府が開かれた際、京都の西本願寺は別院を設けましたが、当初は浅草横山町(現在の日本橋横山町)の辺りにあり、「浅草御堂」と呼ばれました。
ところが1657年の明暦の大火で焼失。
再建を願ったところ、幕府が許可したのは江戸湊の浅瀬。
この時すでに、徳川家康が摂津国佃村から呼び寄せた漁師たちは、鉄砲洲の干潟を埋め立てて「佃島」を造っていましたが、
彼らが西本願寺の門徒だっため、この築地の埋め立てには、多大な貢献をしたのだそうです。
そうしてできた百間四方より少し大きな土地に建てられたのが、「築地本願寺」なのです。
その後様々な変遷を経て、伊東忠太の設計による現在の本堂が創建されたのが昭和9年。
それから78年後の今年、大修復が行われたのです。
行事当日は、境内に「食のまち築地」ということで、全国各地のご当地グルメが集合。
もちろん地元築地のお店も出店して、秋空の下、皆さん舌鼓をうっていました。
そして、本堂内では、法要・記念講演が行われ、修復の歩みを紹介するビデオ上映とパネル展、大谷光瑞(鏡如上人)と設計者の伊東忠太のパネル展が開催されました。
大谷光瑞は西本願寺の第22代宗主で、仏教の源流を調査するために、シルクロードに大谷探検家を派遣した方です。
この探検隊が、探検の途中で伊東忠太に出会ったことが、現在の本願寺の建物が生まれるきっかけとなったのです。
そして、この本堂内の行事で一番有り難かったのが、本堂内覧会。
普段は上がれない内陣の奥にまで入ることができ、本当にすぐ近くで拝観させていただくことが出来ました。
御厨子等の仏具だけでなく、柱や長押・障壁等、内陣の金箔の部分は全て新しく箔押しされ、漆も塗り直され、彩色されていた部分は修復の後に補彩されて、眩いばかり。
その美しさと荘厳さに息を飲むばかりでした。
更には修復工事の詳細なパンフレットもいただき、本当に得難い機会に出会うことのできた、素晴らしい記念行事でした。