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大石内蔵助 中央区からいざ討入りへ

[与太朗] 2012年12月29日 09:00


 「冬は義士、夏はお化けで飯を喰い」 12月は講釈師の書入れ時といわれますが、赤穂義士が本所吉良邸に討入り、吉良上野介の首を上げたのは元禄15年12月15日の夜明け前(西暦1703年1月31日)、今から310年前になります。


 中央区内の義士討入り関係の史跡としては、浅野家上屋敷跡(明石町)、浅野大学長広邸(銀座4)、間新六墓(築地本願寺)、堀部安兵衛武庸之碑(八丁堀1)などのほか、史跡とは言えませんが、本所から泉岳寺までの義士引揚げルートのうち、永代橋~霊岸島~稲荷橋~浅野旧邸の前を通り、木挽町~汐留橋までが中央区内になります。また堀部弥兵衛・安兵衛の刃傷事件後の屋敷(東日本橋2)や石町三丁目、南八丁堀などに三か所の義士の潜伏先が区内にあったといわれています。


 大石内蔵助・主税が討入りまで潜伏したのは、石町三丁目南側の小山屋弥兵衛裏店でした。小山屋は訴訟のために江戸に訪れる者が利用するいわゆる公事宿で、かなり繁昌しており、そういう所がかえって人目に立たないということでしょう。大石主税が討入り前の9月に江戸入り、公事訴訟に来た垣見左内と名乗って小山屋に泊り、内蔵助は11月に伯父垣見五郎兵衛として合流します。ほかに小野寺十内ら数人の浪士もここに集まり、小山屋は討入り準備の中枢となります。


 なお、石町三丁目といえば「時の鐘」やオランダ・カピタン江戸参府の際の定宿「長崎屋」が有名ですが、小山屋も一部オランダ人の宿舎として使われたそうです。「ここがあのオーイシが住んだ所か」などと話す彼らを想像するのも楽しいですね。


 ところで石町三丁目の小山屋はどこにあったのでしょうか。物の本によれば「現在の日本橋本町4-1にあった」、「長崎屋(日本橋室町4-4)と軒を連ねる場所にあった」、「小山屋の真向かいに石町の鐘があった」、「(天ぷらの)てん茂の場所(日本橋本町4-1-3)にあった」・・・などと書かれています。これらはすべて石町通り(現在の江戸通り)の北側になります。(石町三丁目はいわゆる両側町で通りをはさんだ南北両側で成っています。現在の地番では北側は日本橋室町4-4と日本橋本町4-1、南側は日本橋室町3-4と日本橋本町3-3になります。) ところが四十七士の一人、寺坂吉右衛門の覚書「寺坂私記」には「石町三丁目南かは小山屋弥兵衛裏店」とあるので、南側にあったとするのが自然ではないかと素人なりに考えるのですが。詳しい方のご教示をいただければ幸いです。


 小山屋から本所吉良邸に向かった大石らはついに本懐を遂げます。この年の暮はとりわけ寒気が厳しかったそうです。寒がりと伝わる大石ですが、さぞかし満ち足りた心境で新しい年を迎えたことでしょうね。


【写真】 江戸通り、室町三丁目交差点より東方を望む。

      左側(北側)に長崎屋跡の説明板があります。