「うーん。何か違和感があるなぁ。」
初めて築地本願寺の本堂を見たときの、正直な感想でした。
こういうものだろうと予想し、期待したものと異なるものを見たとき、「違うんじゃないか」と、その差を認めたくない感情が湧くものです。
本願寺といえば、京都の市街にドーンと存在感を示す、大伽藍。
堂々たる木造建築群を思い起こさずにはいられません。
桃山文化の絢爛たる息吹を伝える、国宝の建造物。特別名勝・史跡の庭園。
そのような建造物を期待していたのに、見事に外してくれました。
地下鉄日比谷線「築地駅」の1番出入口を出て東側を見ると、そこが築地本願寺の正門です。
冬の東京の澄み渡った青空を背景に、古代インド様式の巨大な建物が座っています。
両翼に塔屋を持つ、白く輝く石造りの建物です。
何が予想と違っていたのか。
まず、建物が古代インド様式であること。
構造が木造建築でないこと。
寺院の広がりを形づくる、七堂伽藍がないこと。
つまり、思い描いていた日本のお寺のイメージから遠く離れているのです。
何度か通い建物を見慣れてきた頃に、「伊東忠太」という明治から昭和期にかけて活躍した建築家・建築史家を知ることになりました。
湯島聖堂や靖国神社神門など、多くの神社・寺院の設計に携わっています。
また、一橋大学兼松講堂や大倉集古館などの大規模な建築も行っています。
そして、ここ築地本願寺の本堂も、伊東忠太博士の設計によるものなのです。
多くの寺社建築に携わった人が、なぜ木造建築としなかったのでしょうか。
関連資料に当たっていくと、伊東忠太博士は1926年(大正15年)に神田明神復興の設計顧問に招かれています。
1923年(大正12年)の関東大震災で焼失した社殿を再建するためのものです。
その際、当時としてはとても珍しい鉄骨鉄筋コンクリート構造の採用を勧めています。
これは紛れもなく、関東大震災を経験したことによる、建物の耐震性・耐火性を高めるための選択だったといえます。
築地本願寺も関東大震災により堂宇を焼失しました。
1934年(昭和9年)の再建時に、構造を鉄骨鉄筋コンクリートとした目的が、不燃耐震化にあったことが浮かび上がってきます。
七堂伽藍をひとつに集約し、本堂の前面に広いスペースを確保したのも、その一環だったのでしょう。
建築史家である博士にかかれば、日本の寺院と、仏教の大本であるお釈迦様の生誕地、古代インドの建築様式は、真っすぐに結びつく事なのでしょう。
中央ドーム正面のデザインは「菩提樹の葉」。その中に「蓮の花」が咲いています。
コンクリート表面を大理石で覆い、あるいは化粧レンガを使い、アクセントをつけています。
本堂正面階段の両脇で咆哮するのは、翼のある獅子の像。狛犬ならぬ、スフィンクスに似た姿です。
正面の扉を押して本堂内部に入ると、あれっ。真宗寺院。
金箔をふんだんに使った内陣。
すっとたたずむ阿弥陀如来像。
聖人・高僧たちの御影。
社寺の格を現す「折上げ格天井」。
抹香の煙が、参拝者の数だけ、勢いよく漂っています。
その一方で、窓には鮮やかなステンドグラスが使われ、パイプオルガンが設置されています。
アジア・ヨーロッパの物事にとらわれない、多様な文化を吸収していく逞しさを感じます。
そして伊東忠太博士は、とてもかわいらしい意匠を建物の随所に配置してくれました。
中でも動物たちは、お寺をより身近なものとして結びつけてくれます。
象、牛、馬などは容易に見つけ出せるでしょう。鶏、猿、鳳凰となると、集中力が必要です。
本堂を後にし、本堂を振り返ると、水色の木枠の窓ガラスが、鈍く輝いていました。
少しゆがみのある年代物のガラスが、日の光を反射させたのでしょうか。