「いいか、宮(みい)さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になったらば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、・・・」
現代のわれら、1月17日といえばまず阪神・淡路大震災ですが、お年を召した向きはやはり、「熱海の海岸散歩する貫一お宮の二人連れ・・・」と歌になった尾崎紅葉(1868-1903)の『金色夜叉』を思い出すのではないでしょうか。
その紅葉と日本橋の丸善を結ぶ逸話が、内田魯庵(1868-1929)の『思い出す人々』に描かれています。魯庵は評論家、翻訳家、小説家として活躍した人ですが、当時丸善本社に書籍部顧問として入社、PR誌「学鐙」の編集や洋書の販売に尽力していました。
明治の文壇にあって一世を風靡し、広汎な読者を獲得した紅葉ですが、若くして不治の病におかされ、余命三月を宣告されます。やせ衰えて丸善に来た紅葉は、『ブリタニカ』を注文しますが、品切れのため代わりに『センチュリー』を百何円の大金を手の切れるような札で買っていきます。紅葉は決して豊かではなかったそうです。魯庵は、死の瞬間まで知識の欲求を忘れず、豊かでない財嚢から高価な辞典を買うことを惜しまなかった紅葉に讃嘆します。
魯庵は紅葉や硯友社の作品については批判的で、二人の仲も疎遠だったようですが、このときの「小一時間の四方山話」では、わだかまりもなく打ち解けることができたと書いています。そして誰も知らない「この紅葉の最後の頁を飾るに足る美くしい逸事」を後世に伝えるのだと言っています。「紅葉は真に文豪の器であって決してただの才人ではなかった。」
久しぶりに立ち寄った丸善。中央区観光検定のテキスト『中央区ものしり百科』や『過去問題集』、それに旧テキストもここの一階で買ったことを思い出し、二階に上がれば、文庫の売り場に『金色夜叉 上下』『思い出す人々』が今も並んでいます。その昔、田山花袋が当時の丸善の二階で、前借した十円でモウパッサンの十二冊の短篇集を買い、撫でたりさすったりした、と書いた『東京の三十年』も同じ棚にありました。三階に上がるとカフェは昼食時、創業者早矢仕有的が生み出したハヤシライスのランチを楽しんで店を後にしました。