肌寒い春の日、築地市場周辺からその周りの海軍関連施設を探訪しました。
行程は以下のごとくです。今回は太字の斜め文字の所を案内します。
築地市場駅・・・東京都中央卸売市場築地市場・・・浴恩園跡・・・
海軍発祥の地・・・海幸橋の親柱・・・波除稲荷神社・・・軍艦操練所跡
・・・築地ホテル館跡・・・海軍経理学校の碑・・・かちどき 橋の資料館
・・・勝鬨橋・・築地場外市場・・・海軍兵学寮跡・・・海軍軍医学校跡
海幸橋は昭和2年に旧築地川東支川の隅田川河口付近に架けられた。しかし平成7年に川が埋立てられ橋の本体が平成14年に撤去。
濃緑色の鋼鉄製親柱2基と当時そのままの石造親柱2基がひっそりと立っている。これは見落としがちだが、ぜひともゆっくりと見てほしい。本来ならば資料館入りのもの?
背後にお目見えするのは波除稲荷神社のお歯黒獅子。この獅子には擬宝珠が頭部にある。右の塚は築地の各商売の塚。撮っているカメラ側には天井大獅子がある。
また、右手側の祭壇のわきには天水鉢二対がある。
天水鉢はここにあった尾張徳川家の藩船が無事に航行できるように人夫たちが天保9年に奉納したもの。年代物なのでじっくり鑑賞されるとよい。
また、この神社では干支めぐりのためのきれいなガラス玉が500円で販売している。上記の写真の右手側に十二支の小さな石柱がある。そこに自分の願いごと(ガラス玉は4種類)にもっとも近いガラス玉を購入し自分の干支の像に奉納し願をかける。神社側は願をかけたら持ち帰るようにお願いはしていたが、、、かなりのガラス玉がそのまま、、、。
これがそのガラス玉の干支めぐりのお知らせ。
右の図のウサギの写真部分が十二支の石柱。
その石柱の下部のところにゆっくりと願い事をしながら入れるわけ。そうするとご利益があるのかな?
これから 軍艦操練所跡と築地ホテル館跡へ行く。
築地駐車場(勝鬨橋寄り)がその跡地。
晴海通りにでて交差点のところに説明版がある。
軍艦操練所が焼失したころの古地図が掲載されている。
元治元年の頃、隣接した松平安芸守屋敷に移転。慶應2年にまたもや焼失。
最後は徳川将軍家の別邸「濱御殿」(現:浜離宮恩賜庭園)へ移転。その跡地に明治元年外国人用のホテルとして築地ホテル館が開業。
客室102室。しかし、明治5年銀座大火にて全焼。残念。
明治7年に芝に海軍会計学舎が出来たのが海軍経理学校の始まり。
明治21年に浴恩園跡地に、昭和7年に築地の一角に、昭和20年9月海軍解体により約70年の歴史を閉じた。
ご存じのように「かちどきのわたし」の碑は明治38年、築地と月島を結ぶために建てられたもので、日露戦争の旅順陥落を記念しているのもなるほど~~~
ここに"かちどき 橋の資料館"がある。勝鬨橋を開くための変電所を改修した資料館。
勝鬨橋に関する資料・橋の模型・関東大震災後に建設された復興橋梁の設計図面・工事写真・関係文献がある。希望すれば担当者からの説明を受けることも出来るよう。
勝鬨橋は昭和15年にできた双窯跳開橋。運航量などの減少により昭和45年11月29日に中止。予約制で橋脚見学ツアーがあるのは周知のとおり。
築地場外市場を散策。お買いものツアーに変身。両手に花の状態。迷子もでる
明治2年、築地に海軍操練所(軍艦操練所とは違いますぞ!)
を創設。明治3年に海軍兵学寮と改称。明治21年には
江田島へ。あああ~~~
明治4年に竣工した校舎は注目の的だったよう。海鼠壁に
屋根瓦。目の前にその光景が浮かんでくる~~~
のちに海軍大学校として使用。関東大震災で焼失。
この記念碑は昭和9年に建立。築地がんセンターの裏、高速
道路に乗り上げる横にある。わかりにくい。
明治6年 築地に海軍病院付属学舎設立
海軍医療学舎
海軍軍医学舎
明治13年 廃校
明治15年 芝の地に海軍医務局学舎再興
明治22年 海軍軍医学校と改称
明治41年 築地に校舎設置
関東大震災で移転するが、
昭和4年 築地5丁目に新校舎設置
1945年 廃校
最後は、ここで休憩
今日は茶遊会にて(ラッキー)
500円にてお茶とお菓子を
たらふくいただくことになる~~~。
お得には弱い中高年者の
集まりだ
みんなで仲良くお茶しましょう