歩行者天国にて闊歩する人たちを尻目に、ちょっと静かなそれでも色々と歴史的な遺跡が散在する銀座五~八丁目を散策してみました。
今回は太文字で示している場所のレポートをします。次回も楽しみにしてください
<行 程>
銀座駅・・・数寄屋橋の碑・・・北村透谷&島崎藤村記念碑・・・石川啄木歌碑・・・歩行者天国・・・商法講習所跡・・・金春屋敷跡・・・銀座煉瓦遺構碑・・・銀座柳の碑・・・芝口御門跡・・・三十間堀跡・・・元国鉄踏切信号機・・・検査業務開始地・・・銀座案内所・・・新橋演舞場・・・東京商工会議所の跡・・・佐久間象山塾跡・・・狩野
銀座駅から出発、、、
数寄屋橋公園にある「君の名は」の記念碑
数寄屋橋は江戸時代初期の江戸城の外堀に
架けられた橋。
埋立てにより昭和33年に撤去。
北村透谷・島崎藤村の碑
透谷・藤村の出身校である
泰明小学校の前にこの碑がある
昭和53年6月25日は
泰明小学校創立100周年の日
泰明小学校の前の通りがみゆき通り。
我々には懐かしい通り。
みゆき族なんて知っているよね~~~。
銀座にもこういう標示が
あるのだ!
石川啄木碑
啄木が朝日新聞社で頑張っている様子が、、、。
あの有名な交詢社。
竹中工務店によって
大きなビルになっても昔の面影を残してくれた!
感激!
商法講習所
なんとまあ、大通りの松坂屋の前にあり!!
一橋大学の前身。森有礼が開講した。
銀座煉瓦遺構の碑
よくぞこれも残してくれたものだ!感激!!
金春屋敷跡
幕府直属の能役者。
この下働きの女性たちが、粋な新橋芸者を形作っていく。この近くに有名な金春湯がある。
街路樹のため松・楓・桜を植樹しょうとしたが、全部だめ。柳だけ根付いた。
「銀座の柳」の歌の歌詞と譜面の碑
宝永7年(1710)、朝鮮通信使の江戸参府に際し、我が国の威光を示すために、新橋の北詰に枡形門が建造された。この門が芝口御門と呼ばれた。同時に新橋も芝口橋と一時改称された。
しかし、享保9年に焼失し、それ以来再建されず石垣も撤去。芝口橋は新橋という旧名に戻った。
当時の門の意匠を施した銅版。昔の面影を偲ぶ。
三十間掘跡
慶長17年(1612)に開削。
堀の幅が三十間あることによってこの名がついた。
文政11年(1828)に堀幅が十九間に縮小。
昭和27年(1952)に埋め立てる。
上記の説明版の横に三個の大きな石がある。その石群の説明版。
これらは高速道路出口にあり。
わかりにくい。
以上、前篇はここまでです。