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◆中央区 ここに歴史あり(55) 煙草王・村井吉兵衛~日本橋に旧村井銀行の遺構

[巻渕彰/写楽さい] 2013年8月10日 09:00

日本橋の南側に三菱東京UFJ銀行日本橋中央支店が入る日本橋御幸ビルがある。その北東側、野村證券ビルに向かって古い出入り口が残されている。これはこの場所にあった旧村井銀行の出入り口跡である(写真上)

                                                   

0913_55_130808muraibank.jpg村井銀行は京都出身の村井吉兵衛〔文久4年(1864)-大正15年(1926)〕が設立した。明治期に村井は煙草民営化で「東洋の煙草王」と称され、わが国初の両切り煙草「サンライズ」を製造販売して巨富を築いた。東京銀座・岩谷松平の「天狗煙草」と宣伝を競ったという。

 

煙草が専売制になった明治37年(1904)に莫大な賠償金を得て、村井銀行を創設し、京都を中心に東京にも進出した。当初の支店は大伝馬町一丁目だったが大正2年(1913)、ここ日本橋の三角地にルネサンス様式で日本最初の鉄筋コンクリート構造の新社屋に移転した。金融恐慌で昭和2年(1927)破綻・倒産した。ほかにも村井汽船、村井鉱業、帝国製紙などを設立した。

 

村井吉兵衛の邸宅は現在の千代田区永田町、日枝神社近くの都立日比谷高校敷地にあった。大正元年(1912)約5千坪のこの地に移り、大正8年(1919)竣工の建物は「輪奐〔りんかん=建物の広大、壮麗なこと〕の美を極めた純日本式の屋宇」で「山王荘」と呼ばれたそうだ。倒産後は延暦寺の書院として移築された。

 

村井は大正15年(1926)に急死し、昭和2年(1927)の銀行倒産で邸地は東京府に売却されて、昭和4年(1929)府立一中(現日比谷高校)が西日比谷から移転した。旧邸の門柱が今も校舎正門として使われている(写真中央)。メキシコ大使館側の新坂(遅刻坂との俗称)に面した旧美術品倉庫も資料館として整備され、現存している(写真下)

 

ちなみに、日比谷高校は東京府尋常中学校として明治20年(1887)6月、京橋区築地3-15(現東劇ビル辺り)に移転し、明治32年(1899)東京府中学校と改称したその年の3月まで、12年間ほどは築地に置かれていた。その跡地には明治40年(1907)4月、府立工芸学校(現都立工芸高校)が開校した。@巻渕彰