『新橋』というと、現在は港区にある地名になっているので、なぜ中央区?と思う方もいらっしゃるかと思います。
でも『新橋』はかつては銀座の先の汐留川に架かっていた「橋」で、江戸時代には芝口橋と呼ばれていた時期もありました。
汐留川は、終戦後に徐々に埋め立てられてしまいましたが、我が家にあった戦争直後の写真には、親柱と、右端に少しだけ欄干が見えます。
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この親柱は現在も残っていて、銀座8丁目の博品館の斜め前、スーパーのハナマサの入口前の高速の下に、今でもその姿を見ることができます。
この新橋があった場所のすぐ近く、博品館の裏通りには、江戸時代に能楽の金春流の屋敷があったため、現在でも金春通りと呼ばれています。
幕末にここに住んでいた常磐津の人気の女師匠が、しばしば宴席などに呼ばれるようになり、幕府から「酌取御免」のお墨付きをもらいます。
これが所謂「新橋芸者」の始まりです。
料亭や待合なども、この周辺から木挽町(現在の銀座の東側)、築地辺りにあります。
ですから「新橋の花柳界」というのは、港区の新橋にあるのではなく、「新橋」という橋の中央区側の周辺の事なのです。
そして大正14年に建てられた『新橋演舞場』が、新橋駅からかなり離れているにも関わらず『新橋』とつくのは、「新橋芸者」の技芸向上の為に建てられた為であり、出資したのは料亭や置屋や芸者衆などの新橋花柳界の関係者たちです。
昭和15年からは松竹と興行契約を結び、その傘下となりましたが、今でも経営陣の中には、料亭のご主人が名前を列ねています。
新橋芸者衆によって、毎年5月に4日間催される「東をどり」は、かつては春秋の年2回行われて、川端康成・谷崎潤一郎・吉川英治らが戯曲を書き下ろし、踊りの名手「まり千代」のブロマイドが売られて女学生のファンの列ができたのだそうです。
なお、新橋花柳界が何故発展したかといえば、薩長等の幕末の志士で明治政府の要人となった人々は、当時まだ若く、西国の無粋な人たちと見られて、江戸時代に一流とされた柳橋などでは歓迎されなかった為、新興の新橋での宴席を好んだからだそうです。
現在でも有名な文学賞の、芥川賞・直木賞の選考会場となっている料亭「新喜楽」(初代女将の当時は「喜楽」といっていた)は、伊藤博文が大変ひいきにしていて、朝鮮総督として京城に在任中に、女将が訪ねて行ったところ、とても喜んで、女将を讃えた漢詩を揮毫して記念に送ったということです。