師走といえば赤穂義士の討入り、歌舞伎座では『仮名手本忠臣蔵』・・・ということで、今年も忠臣蔵にちなんだ話を一つ。
四十七士の一人、間新六(郎)光風(はざましんろくみつかぜ)の墓が築地本願寺にあるのを御存じの方も多いと思います。討入り後に姿を消した寺坂吉右衛門を除く四十六人のうち、新六ただ一人が泉岳寺以外に葬られました。これは、義士切腹の日元禄十六年(1703)二月四日、老中秋元但馬守の家臣だった新六の姉婿の中堂又助が、新六が切腹した毛利甲斐守邸から遺骸を引取り、中堂家菩提寺の築地本願寺に葬ったことによります。 (のち泉岳寺にも三十五日に他の義士とともに墓碑が建てられます。戒名は刃模唯劒信士。)
新六は父の喜兵衛(細川越中守邸で切腹)、兄の十次郎(水野監物邸で切腹)とともに討入りに加わっているので、(親子三人も参加したのは間家だけですね。) 「なぜ新六だけ?」と思われる向きもあるようですが、切腹後の泉岳寺への遺体搬送は細川家、水野家、松平隠岐守家、毛利家の順に時差を設けて行われたので、中堂又助は喜兵衛の細川家と十次郎の水野家にも足を運んだが、遺体はすでに泉岳寺に運ばれた後で、最後になった毛利家にはようやく間に合って新六の遺体のみ引取ることができたのだと考えられます。なお、本所吉良邸から泉岳寺引揚げの途中、新六が槍に金子を結びつけて本願寺に投入れ、供養を頼んだという伝えがありますが、後の作り話でしょう。
新六ただ一人・・・といえばもう一つ。切腹の作法は当時すでに形式的になっていて、腹を切る前に介錯人が首を落とすのが当たり前のところ、新六のみ介錯人が刀を振り下ろす前に腹一文字に切って果てたといわれています。吉良上野介に一番槍をつけ介錯をまかされた兄といい、剛毅な兄弟だったようですね。
先日(14日)、泉岳寺の義士祭に出かけてみましたが、いやはや例年以上の人出で、義士の墓所にはとてもたどりつけそうもないので、すぐにあきらめて築地本願寺に回り、静かな新六の墓にお参りをいたしました。
【写真上】 築地本願寺の新六の墓、天保年間に再建されたもの。こちらの戒名は「歸真釋宗貞信士」。
【写真下】 新橋・新正堂(内匠頭が切腹した田村右京大夫邸跡に近く、「切腹最中」で有名) の「義士ようかん」、歌舞伎座の B2F木挽町広場で売っていました。 左・・・間新六郎(黒糖) 中・・・間喜兵衛(塩) 右・・・間十次郎(黒糖)