近年、住んでいる土地や地形への関心が高まっている。中央区の地形の成立は、江戸前島と呼ばれる半島状の砂州を中核として、その後、周辺が埋め立てられた、といわれている。
今回の歴史散歩は、その江戸前島の周縁付近を歩きながら沿道の名所旧跡を、4月、2回にわたって探訪するコース。主催は中央区まち歩きボランティアガイドの「中央区文化財サポーター協会」
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(左図)「江戸の原型」(鈴木理生著『江戸はこうして造られた』ちくま学芸文庫版、2000年1月発行、p21から部分) (右図)国土地理院の電子国土ポータルサイトから「土地条件図」と「明治前期の低湿地図」を合成
江戸前島と現代の地形を見ていこう。
左図で中央の半島状一帯が江戸前島と呼ばれている。御茶ノ水と記された本郷台地の南に位置し、日本橋台地ともいわれる。尼店が日本橋付近で、将門首塚は大手町辺りであろうか。江戸前島の西は日比谷入江、東が海上である。
この江戸前島の地形をもとに江戸が造られていったといわれている。神田山を取り崩して日比谷入江を埋め立て、旧平川を外堀や日本橋川の源流とし、堀割で水路をつくる。旧東海道は江戸前島の尾根部辺りを通したとされる。江戸初期の町の様子は絵地図『武州豊嶋郡江戸庄図』が物語っている。
右図は最近公表された、地形構造が分かる最新データである。中央に逆「く」の字に折れ曲がった黄色の場所は「砂州」と分類される微地形で、左図の江戸前島とほぼ重なることが分かる。東京駅辺りはやや異なるが、新橋辺りが江戸前島の南端であることは合致している。右図は明治前期、つまり幕末期の中央区の姿ともいえる。水路が張りめぐらされ、月島はまだ存在しない。
この2図を重ね合わせると、今日の中央区中心部は江戸前島と呼ばれる砂州から誕生したといえるようだ。では現在、その痕跡はあるのだろうか。晴海通りや永代通りを東西にわたる地点で標高差を調べてみると、江戸前島の尾根部、現在の中央通りは周辺より標高(海抜)が高くなっている。外堀跡や楓川跡は江戸前島の外縁部付近と思われる。
今回の歴史散歩は中央区の地形形成の原点を探り、江戸・東京の歴史を見つめる、これまでにない新しい試みである。@巻渕彰