3月といえば、まず3年前の3.11東日本大震災ですが、東京人としては69年前、10万人もの命が奪われた3.10東京大空襲も忘れることが許されない惨害ですね。このとき、浜町の明治座に避難して命を落とした方々の中に、日本橋生れの小説家・劇評家・書家の山岸荷葉(1876-1945)の名があります。
山岸荷葉は本名・惣次郎、当時のメインストリート本町通り、通油町(現在の日本橋大伝馬町)にあった硝子・眼鏡問屋の加賀屋(通称加賀吉)に生れました。同じ町内に育った文化人に川尻清潭、長谷川時雨がいます。時雨の『旧聞日本橋』には、彼女の父が大店加賀吉を会場にして憲法発布の祝賀の演説をしたとあります。
彼は幼少から書道に秀で、書家巌谷一六門下で神童といわれ、(後には「かがのや流」で一家をなします。) 一六の息子小波の紹介で硯友社に入り、尾崎紅葉の下で小説家となります。代表作『紺暖簾』をはじめ明治期の日本橋の商家や花柳界を舞台に下町情緒を描いた作品は「日本橋文学」と呼ばれました。後年は演劇に関心を移し、荷葉翻訳の劇を川上音二郎一座が明治座で上演するなど、西欧演劇の大衆化に貢献したほか、歌舞伎の劇評にも腕を揮いました。彼の人柄は気さく・洒脱で誰からも慕われたといわれます。画家の鏑木清方とは互いに心を許す友人でした。
昭和20年3月10日の大空襲には、自宅に近く、翻訳劇を上演した縁もある明治座の建物に避難したが、ここも被災して落命。硯友社最後の文人,山岸荷葉は日本橋に生れ育ち、日本橋を描き、日本橋で生涯を閉じたのでした。享年69歳でした。
【写真上】 旧通通油町の現在、大伝馬本町通り。石町通り(現在の江戸通り)に電車が走るまでは、こちらが幹線道路で、大店が 軒を連ねていました。江戸時代には蔦屋重三郎の書肆・耕書堂もここにありました。
【写真下】 谷中霊園にある山岸家の墓。近くにある川上音二郎の銅像台座には、荷葉書の碑文が彫られています。