京橋税務署と新大橋通りの間に「新富稲荷神社」がある。この辺りは新富座芝居町跡である。神社縁起は不詳だが、七代目坂東三津五郎奉納の手水舎がある。
明治維新後この一帯が新島原遊郭になり、中万字楼という妓楼の前にあったので、中万字稲荷とも呼ばれたという。遊郭廃止後、明治5年(1872)、新富町に守田座(のちの新富座)を移転するときに十二代目守田勘弥が再建したそうだ。明治期当時の新富座界隈絵図に描かれているので芝居町の鎮守社だったのだろうか。現在、境内には「奉納坂東三津五郎」の扁額と「七代坂東三津五郎」名が刻まれた手水舎がある。
守田座座元の十二代目守田勘弥の長男が坂東三津五郎家の養子に入り、七代目坂東三津五郎となったことから守田姓となったそうだ。屋号は大和屋。定紋は三ツ大。十代目坂東三津五郎は、七代目の本名「壽作」(じゅさく)にあやかって「寿」(ひさし)と命名されたという。十代目は去る2月21日、すい臓がんで死去した。享年59。
新富座の前身の守田座は江戸三座のひとつで、当初は森田座として木挽町で櫓を揚げた。「江戸名所図会」に挿絵が載り、跡地には説明板が設置されている。のち浅草・猿若町に移転し、明治期になって新富町へ移って興行した。中央都税事務所前には「新富座跡」説明板がある。@巻渕彰