政府が外国人の居留及び交易区域として特に定めた「外国人居留地」。
横浜や神戸が有名ですが、中央区の明石町にも設置されていたのをご存知ですか?
冬の寒い日に『築地外国人居留地』の面影を残す明石町を散策してきました。
【散策コース】
1:女子聖学院発祥の地→2:青山学院発祥の地→3:明治学院発祥の地→4:ヘンリー•フォールズの指紋研究発祥の地→5:アメリカ公使館跡の記念碑→6:築地居留地跡→7:慶応義塾発祥の地→8:立教学院発祥の地→9:女子学院発祥の地10:聖路加国際病院トイスラー記念館11:ガス街灯柱→12:カトリック築地教会→13:雙葉学園発祥の地
(写真左:聖路加国際病院トイスラー記念館、右:アメリカ公使館跡の記念碑)
【築地外国人居留地について】
安政5年6月江戸幕府はアメリカと修好通商条約貿易章程に調印し、これを原理として同年にオランダ•ロシア•イギリス•フランスとそれぞれ締結しました。(安政5カ国条約)
この条約に基づき、箱館(函館)、神奈川(横浜)、長崎、新潟、兵庫(神戸)の5港を開市を決めました。
日本における外国人居留地は、条約締結国の外国人の居住や通商のための専用特別区として開港開市場の土地が設けられました。
江戸(東京)の開市は明治元年11月19日、明治新政府のもとで実現し、現在の明石町地区に築地外国人居留地が設定されました。
築地外国人居留地は商館の多かった横浜や神戸などと異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からな宣教師•医師•教師などが居留地に居住し、教会や学校などを数多く開いて教育を行っていました。
このため、築地外国人居留地で発祥•開設されたキリスト教系の学校も多く、現在も校名や所在地を変えながら発展をつており、当地区には発祥を記念した石碑が数多く建てらています。
文京地区として大きな特徴を持っていた築地外国人居留地は条約の改正によって、明治32年に廃止されるまで、日本の近代化に多大な影響を与えた一地区を形成されました。
築地外国人居留地の人口は最盛期の明治25年12月157戸336人でした。
出典:中央区教育委員会
書籍 : 「築地居留地」 築地居留地研究会
(カトリック築地教会は聖堂の調査・補修中でした)