亀島川に架かる「高橋(たかばし)」の脇に古い親柱が残っている。「高橋」は江戸初期の絵図にも載る古くからの橋で、赤穂浪士引揚げの際に通ったともいわれている。最近は近くに小型船舶の係留保管施設もできて、水辺も整備されてきた。この「高橋」の歴史をみてみたい。
現在の「高橋」は昭和59年(1984)3月開通で、亀島川の八丁堀と新川を結ぶ鍛冶橋通りに架かる。ここから下流は南高橋を経て隅田川に注いでいる。残された親柱は新川側の「高橋南東児童遊園」にある。これは大正8年(1919)に架け替えられたコンクリートアーチ橋のものと思われる。(写真上:左が旧橋、右は現橋の親柱)
「正保元年(1644)より翌2年(1645)7月までの図と考えられる『正保江戸図』に、無名橋ながら記載されている。また、名前の由来については、亀島川の河口付近に架けられたため船舶の出入りが頻繁で、橋脚の高い橋を架けたことに由来するといわれている」(『中央区の橋・橋詰広場』中央区近代橋梁調査(中央区教育委員会、1998))とある。
江戸期は、高橋が亀島川最下流の橋であり、江戸湊から稲荷橋は八丁堀(堀割)への舟入の地点で大型船はここまでしか入れなかったところである。『名所江戸百景』「鉄炮洲稲荷橋湊神社」(広重)にその風景が描かれている。新川側は将監河岸であった。
さらに、「明治15年(1882)10月竣工の鉄製ホイル・トラス橋は、初めて日本人技術者原口要によって設計されたという国産橋であった」(同書)とあり、この景観は井上安治画『霊岸島高橋の景』に黒塗りのトラス橋が描かれている。
現在、高橋と南高橋間の水域には、公益財団法人東京都公園協会が管理する亀島川係留保管施設が設けられ、10隻ほどの船舶が係留できるように利用されている(写真下:高橋から見た左岸の新川側、右岸は八丁堀舟入)。@巻渕彰