中央区にたくさんある道府県のアンテナショップには、すでに全国に名の知られたブランド名をうまく利用したり、ご当地出身の有名人の名を冠した商品が陳列されています
日本橋室町2丁目YUITO ANNEXに入っている三重県の情報発信センター「三重テラス」で、下の商品を見つけて、買ってしまいました
「松阪牛チップス」と「伊勢の国 光太夫あられ」です
前者は言わずと知れた超強力ブランド「松阪牛」にあやかったものですが、後者については、最初見たとき「光太夫って誰?」という感じでした。「鈴鹿名物」とも謳っています。
袋に印刷された人物の服装から、「ロシアに行っていた大黒屋光太夫かな?」と気づきましたが、そもそも「大黒屋光太夫って三重県出身でしたっけ?」
失礼しました確かに、三重県鈴鹿市ご出身でした
大黒屋光太夫は、江戸時代後期の伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運送船)の船頭でした。
天明2年(1782年)、嵐のため江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島(当時ロシア領)のアムチトカ島に漂着。光太夫は、ロシア帝国の帝都サンクトペテルブルクで女帝エカチェリーナ2世に謁見して帰国を願い出て、漂流から約9年半後の寛政4年(1792年)に根室港入りして帰国しました。
当時の幕府老中・松平定信は、光太夫を利用してロシアとの交渉を目論みましたが定信自身が失脚し、その後は江戸で屋敷を与えられ、数少ない異国見聞者として桂川甫周(築地在住)や大槻玄沢ら蘭学者と交流し、蘭学の発展に寄与しました。
光太夫は、寛政7年(1795年)には大槻玄沢が実施したオランダ正月を祝う会(新元会)に招待されており、桂川甫周を始めとして多くの知識人たちとも交際を持っていたそうです。
下の絵は、大槻玄沢の私塾、芝蘭堂での新元会の様子を描いたものです。(芝蘭堂新元会図(部分)、市川岳山画)
赤枠の人物が光太夫だと言われています
芝蘭堂は、この時期京橋水谷町にあり、光太夫自身も中央区との関わりがあったということですね
てなことを考えながら、「松阪牛チップス」も「光太夫あられ」もおいしくいただきました