私は、東京都中央区の歴史を少し勉強して、昭和22年の「旧日本橋区」と「旧京橋区」の統合の際に、歴史と伝統に勝る「旧日本橋区」が新興の「旧京橋区」との統合に抵抗感を表したことを知り、「日本橋ッ児」の心情について、大いなる共感を覚えました。
いろいろと資料を読んでいると、「日本橋区」では、戦前、特に関東大震災前など、職住近接で、主人も使用人も同居し、旦那方も地域の小学校などで机を並べることにより、濃密な地域一体感を持っていたようですね。婿取りも通例であったようで、大阪の「船場」に似た地域社会が形成されていたようです。
「東京都中央区」誕生の10年以上も以前ですが、「日本橋」で生まれ育った谷崎潤一郎は、関東大震災後の東京、日本橋の「復興」について、「一番ひどいのは日本橋ッ児の運命である。彼等の家の跡は、京橋銀座丸の内の勢力範囲に入れられて・・・・」(「東京をおもふ」『中央公論』昭和9年1~4月)と述べています。
また、吉井勇(1886-1960)は
日本橋のうつりかはりも悲しけりわが身のうへに思ひくらべて (『昨日まで』)
と歌っています。吉井勇は、谷崎のような日本橋生まれでも育ちでもないようですが、日本橋や日本橋近辺の歌をたくさん詠んでいるようですね。 そして、後(1938年)に関西(京都)へ移住しています。関西で、谷崎や川田順などとも親交があったようです。私は、「かにかくに 祇園はこひし寝(ぬ)るときも 枕のしたを水のながるる」という有名な歌からして、吉井勇を関西人と誤解していました。伯爵の出のようですが、府立一中を落第しています。上記の歌は、自からの人生の挫折を日本橋地区の勢力沈下に準えたのでしょうか。 『昨日まで』は1913年の刊行です。