八丁堀と京橋の間の楓川跡に陸上橋の宝橋が架かっている。橋上は楓川宝橋公園で、西詰北側に「宝地蔵尊」の小さな祠がある。楓川は江戸前島の東端とされ、西側は江戸初期の本材木町であった。宝橋は関東大震災後の架橋である。
この宝地蔵尊の由来はなんであろうか。地蔵像台座にわずかに刻文がみえる。昭和29年(1954)夏の午後6時55分、当時8歳の児童が楓川に落ちて亡くなった、とある。愛しい子どもを供養するお地蔵様だった。
この楓川は江戸初期から物流を担った重要な堀割で、八丁堀舟入から日本橋への舟運路であった。50年前の東京五輪の際に埋め立てられ、川底が首都高速1号線に変わった。
かつて宝橋の欄干には、廓門橋(後の呉服橋)から撤去された擬宝珠が赤坂の弁慶橋とともに取り付けられたという。橋の西側の町名は現在京橋であるが、住居表示変更前は「宝町」であった。都営地下鉄浅草線に「宝町駅」にその名が残る。
60年前、子どもの転落事故を追悼する宝地蔵尊は、当時の地域環境を語るとともに、子どもたちが元気に遊んでいた情景が思い起こされる。二度と悲惨な事故が起こらないことを願って見守り、祠に寄り添うビワは実をつけ始めてきた。@巻渕彰