木下杢太郎に 「築地の渡し」 という詩があります。
房州通ひか、伊豆ゆきか。
笛が聞える、あの笛が
渡わたれば佃島。
メトロポオルの燈が見える。
第一詩集 『食後の唄』(1919) に収められるにあたり、「築地の渡より明石町に出づれば、あなたの岸は月島また佃島、燈ところどころ。実に夜の川口の眺めはパンの会勃興当時の芸術的感興の源にてありき。・・・・」 との序が付されています。
この「メトロポオル」とは、築地にかつて存したホテルの名前なのですね。
北川千秋著『築地明石町今昔』(聖路加国際病院礼拝堂委員会発行;1986年)中の「築地界隈ホテル物語」によると、「メトロポールホテル」は、明治23(1890)年に米国公使館が赤坂へ移転した跡地に客室20を備えて開業。その後になって、業績不振から明治40(1907)年に帝国ホテルに身売り、事実上の帝国ホテル築地支店となったが、明治42(1909)年閉鎖となったということです。
そして、ホテル及び周辺の風景について、鏑木清方の随筆「築地川」の次の文が引用されています。
「・・・・築地、上野の精養軒と共に観光外人の定宿であったが、場所はよし、外人の経営だったので門内には、馬車や人力車が絶え間なく出入りした。建物は別にとりたてていうほどのものでなく、木造漆喰塗りのざっとした白亜館であった。窓外直ちに房総の山脈をのぞみ、海風室に満つという有様で、眼の下の佃の入江には洋風の帆船マストを並べ、物売る船、渡しの和船がその間を対岸の佃島へ通う。・・・・」
サイデンステッカー「東京下町山の手(LOW CITY, HIGH CITY)」では、
「銀座の大火の後、居留地は再建されたが、ホテル館は再び建てられることはなかった。しかし白秋の回想にもあるとおり(注:白秋は表記の木下杢太郎の詩も引用している)、ほかにもホテルはあった。明治23年、アメリカ公使館が現在の大使館の敷地(赤坂)に移った後にメトロポールというホテルが建ったし、明治7年のグリフィスの東京案内にはすでに精養軒が推薦してある。」(67) と述べられています。