明治19(1886)年に日本橋蛎殻町に生まれた谷崎は、大震災後、関西に移住する。 関西移住後2,3年の間は、時々上京するたびに「帰ってきた」という気になったし、当初は関西の文化への嫌悪を述べていた。しかしながら、そのうちに東京に1週間もいると関西へ「帰り」たくなり、汽車が「逢坂山のトンネルを越え、山崎あたりを通り過ぎるとホッと息をつく」までになった。(「東京をおもふ」)
サイデンステッカーは『立ち上がる東京』(原書1990年)で、次のように述べている。
「この時期の谷崎は、東京にかかわる物はほとんど何であれ好まなかった――少なくとも好きだとは認めようとしなかった」(54)。
「震災後しばらく、日本最大の都会は大阪だったと言えるかもしれない。芸術家やインテリの中にも、関西に移った人々は相当の数に上った。ほとんどは、東京が都市機能を回復するにつれて帰京したが、谷崎は例外だった。大阪そのものに住んだことは一度もなかったけれども、その後の生涯の大半を大阪近郊で過ごしたからである」(59)。
ふるさとは田舎侍にあらされて
昔の江戸のおもかげもなし
昭和37(1962)年に詠まれたという谷崎潤一郎(1886-1965)晩年の一首である。
晩年に詠まれた谷崎の歌をもう一首。
木挽町に団十郎菊五郎ありし日の
明治よ東京よわが父よ母よ
「東京をおもふ」は、大震災によって失われた明治の東京特に日本橋地区へ捧げる挽歌であったのだろう。昭和9年、「中央公論」誌に発表された。