谷崎は、「上方の食いもの」(『文藝春秋』1924年)で以下のように述べている。
「江戸っ児はよく、上方の料理は水っぽくていけないと云う。そして煮物をするのにも、東京人は砂糖や醤油をコテコテと使って真っ黒に煮る。これは一面から云うと、東京の野菜や魚が天然の滋味に乏しい証拠で、砂糖や醤油でゴマカサなければとてもまずくって食えないのである。 上方の人に云わせると東京の料理は悪甘くって食えないと云う。成る程上方では材料がいゝから、天然の味を殺さないで、ほんのアッサリ味醂や昆布だしを加えるだけで結構たべられる。・・・・・・・
上方の料理を水くさいと云う江戸ッ児は、・・・・田舎者なのである。」
そして、「東西味くらべ」(『婦人公論』1928年)では、上記の趣旨を繰り返しながら、
「・・・・一体食味の点から見ると、関西は上国で関東は下国だ。・・・・・どうも京都から東へ行くほど料理は下等になるように思う。
東京などは江戸前とか何とか云って威張っているが、考えて見れば徳川氏草創の頃の田舎料理がそのまま今日に伝わったのだ。」 などと述べている。
ところが、伊藤甲子之助「谷崎潤一郎と私」(「谷崎潤一郎全集」第17巻月報;1968年)では、次のように述べられていることには、苦笑せざるを得ない。
「これ(注;大震災)が切っ掛けで彼(注;谷崎)は関西に住むことになったが、江戸っ子気性の彼は初めのうちは関西の物事何につけても気に喰わない。」 そして、三井物産大阪支店勤務となり10年近く関西在住の伊藤氏について(注;伊藤氏も東京市日本橋区出身で谷崎と小学校の同級生)、「伊藤はもう駄目だ。気性がまるで変わって贅六根性が浸み込んでいる。江戸っ子の面汚だ。困ったものだ」とさげすんだという。
さらに「関西のものは食えぬと豪語、食料品は東京からの取り寄せ、お茶は山本、海苔は山本山に限り山形屋でも駄目、醤油は亀甲万という風で、序があるときは煮豆は芳町宝采屋にまで手が伸びる。そんな風だから鰹節は「にんべん」の品以外は使わない。・・・・・」