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「江戸」の生成

[CAM] 2015年7月14日 18:00

    池田弥三郎氏は、「江戸」という地域の範囲についても考察されている(『日本橋私記』。

 

 池田氏によると、江戸の地というのは、まさに「江処」であり、「え」というのは海岸からはいりこんだ、船がかりするのに絶好な水域のことである。

 

  「江戸」という地名の起原については諸説があるが、江戸太郎という人物が居処としたからだという説もある。また、江戸城の発端は,12世紀初めごろ江戸重継が,荏原郡桜田郷の北東部,江戸湾に臨む台地上に設けた居館だとされている。しかし、因果の流れとしては、人名が地名に由来すると考えるのが自然であって、「江」という場所を意味する「えど」が地名の起原だと考えるのが穏当であろう。

 

    そして、家康公「江戸お打ち入り」(天正18年:1590)の前の東の平地は、どこもかしこも「汐入りの芦原」であって、これを築填する大土木工事によって、江戸の中の江戸というべき、お城の前面の町がおよそ出来上がった。その後、文禄2年(1593)には、日比谷入江が埋められ、そこに散在していた民家は芝口の南に移された。

 

    さらに慶長8年(1603)には「豊島洲崎の築填」といわれる大工事によって、今の隅田川右岸の地が、浜町から新橋あたりまで出来上がったようである。この築填につれて、下町の掘割も形を整え、日本橋川、京橋川、新橋川も、この時に出來、おそらく、面目を一新した日本橋も、この時に出来たと思われる。さらに、明暦3(1657 )の大火の後、木挽町の海岸の築填を行って、この時に築地一帯が完成し、ほぼ日本橋区・京橋区の大体が出来上がった。(68)

 

  『中央区史』によると、明治11年(1878)に、日本橋区・京橋区が正式に成立・発足したのだが、その直前、114月に作られた「区画改正に関する下調書類」によると、それには日本橋区・京橋区の名称がなく、北江戸・南江戸の名がある。つまり、4月の原案の立案者は、日本橋・京橋両区の地域を「江戸」と考え、これを南北二つに分けて、北江戸区・南江戸区というようにしたものらしい。(23) これは、上記のような江戸初期の市街造成の歴史を踏まえると理解しやすい。

 

 このように、「江戸」という地域を、狭義では、北は神田堀(竜閑川)を限りとし、南は新橋川(汐留川)を境とするという考えは、明治11年になっても存していたことがわかる。 『中央区史』は「往時、神田堀を境界とし、以南を江戸とし以北を神田とした」という文献(『再校江戸砂子』『江戸往古図説』)を引いている。(70