元来は、「江戸」という地域は、北は神田堀(竜閑川)を限りとし、江戸の南の境界は新橋川であるとされた。 そして、この新橋川に架かる難波橋が江戸を追放される者の放逐個所となっていたという。
そして、この橋を渡って芝に行くと、そこに兼康祐元の本店があった。そして、本郷にも支店があったのだが、その近くにある小橋「も」、やはり江戸払いの罪人を追放する「別れの橋」となっていたという。(72)
池田弥三郎氏によると、「本郷も、兼康までは江戸のうち」という川柳は、以上のように、江戸の南北の「別れの橋」の何れにも、その近くに兼康があるということを踏まえてできたものであって、「本郷も」の「も」はそういう意味だと言う。(『日本橋私記』)
文京区の観光HPを見ると、
>享保年間(1716~1736)に、現在の本郷三丁目の交差点角に、兼康祐悦という歯科医が乳香散という歯磨き粉を売り出した。これが当たり店が繁盛していたという。
享保15年(1730)に大火があり、湯島や本郷一帯が燃えたため、再興に力を注いだ町奉行の大岡越前守は、ここを境に南側を耐火のために土蔵造りや塗屋にすることを命じた。
一方で北側は従来どおりの板や茅ぶきの造りの町家が並んだため、「本郷もかねやすまでは江戸の内」といわれた。
と説明しているが、文京区の説明は、原因と結果が逆になっているのではないか。サイデンステッカー氏も、以下のように述べているのみである。
>兼康というのは、今も本郷にある有名な薬種・小間物の店で、今の東京大学より手前である。そこから先はもう田舎というわけである。(30)
しかしながら、池田氏のように解することによって、「も」という助詞が活きてくるように思われる。そして、そう解すれば、「江戸」という地域を、狭義では、「北は神田堀(竜閑川)を限りとし、南は新橋川(汐留川)を境とする」という考えがよく理解できる。