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江戸っ子(3)

[CAM] 2015年7月22日 18:00

  

1787年の洒落本《通言総籬(つうげんそうまがき)》(山東京伝作)には、〈金の魚虎(しやちほこ)をにらんで,水道の水を産湯に浴て,御膝元に生れ出ては,拝搗(おがみづき)の米を喰て,乳母日傘にて長(ひととなり)(中略),本町の角屋敷をなげて大門を打は,人の心の花にぞありける。江戸っ子の根生骨,万事に渡る日本ばしの真中から〉とある。

 

しかしながら、「金の魚虎をにらんで」と云うが、江戸城の天守閣は1657年に明暦の大火で消失して以降は再建されていないのではないか。

 

 また、江戸の都市計画、下町の大都市化が進むにつれ、飲料水対策上、大規模な土木工事によって水道が実用されていたので、水道の水を産湯に浴」びることは、たしかに江戸自慢の一つにはちがいなかったかもしれないが、水質は必ずしも良いものではなかったし、水量も豊かではなかったようである。

 

    享保元年(1716)、太田南畝(蜀山人)は、在阪中に出した手紙の中で、「江戸では水道(神田上水や玉川上水など)のドブのようなきたない水を飲んでいて、よくあたらないものだと大坂の人はいっていますが、実際、大坂の川の水はきわめて清冷で、お茶にも格別適しています」といっている。(岡本良一『大阪の歴史』71)

 

   上田秋成も、明和3年(1766)刊の『世間妾形気』で、大坂から江戸へ出ようとする者に、このころの江戸の状況を述べて、「水道の泥水さへ呑まれるゝ事にあらず・・・淀河の水の味おわすれなく、江戸の濁水の御しんばうは・・・・」と述べている。(西山松之助『江戸ツ子』168)

 

 以上は、つまりは江戸が飲料水に乏しかったということであろうが、当時の江戸では、水にかぎらず物資が不足しており、結局つまらぬものしか自慢できないのであった。江戸では、上方から下ったものが上等品で、地回りものは「下らぬもの」ということになる。これは「江戸はわきて人心不敵なる所、後日の分別せぬ所ぞかし」(西鶴)であり、さらに、「江戸のものは小児のやうなり、馬鹿者のやうなり、甚だ初心なり」(升小談)という見方に通じることになる。 (宮本又次『関西と関東』416)

 

    ただし、ここでいう「小児のやうな、馬鹿者のやうな、甚だ初心な江戸のもの」とは、主として後になって江戸っ子に含まれてきた人間たちであって、商家に働く旧日本橋区の人々(主として関西の出身者)ではない。そして、江戸の商業の実権はこうした商人が握っていたのであった。(宮本又次『関西と関東』416)