江戸前期の俳諧師・松尾芭蕉(1644-1694)は江戸で「都市的俳諧」といわれる蕉風を探究し、江戸派として隆盛を極めた。門弟だった日本橋の魚問屋杉山杉風は物心両面で支える。蕉門十哲の一人、榎本(宝井)其角は茅場町に屋敷を構え、その門人で与謝蕪村が師事した早野巴人は日本橋本石町に居住するなど、中央区は芭蕉ともゆかりのある地である。区内の芭蕉句碑を訪ねてみたい。
日本橋室町の日本橋鮒佐の店頭にある句碑(写真上)は、
「発句也松尾桃青宿の春」
延宝7年(1679)、芭蕉36歳の歳旦句。碑石脇の案内板には「寛文12年(1672)29歳のとき伊賀上野から江戸の出て、延宝8年(1680)37歳までの8年間、小田原町の小沢太郎兵衛(芭蕉門人、俳号卜尺)の借家に住んだ」とある。当時の俳号は桃青。
八丁堀の亀島橋西詰南側の句碑(写真中央)は、
「菊の花咲くや石屋の石の間」
元禄6年(1693)秋、芭蕉50歳晩年の作。添書きに「八丁堀にて」とあり、堀割に面した石屋の石材の合間に菊が咲いている詩情を詠んだのか。この句は「江戸名所図会」の挿絵「三ツ橋」の詞書にも取り上げられている。
築地本願寺南門前の法重寺に建てられた句碑(写真下)は、
「大津絵の筆のはじめは何仏」
元禄4年(1691)正月4日、芭蕉48歳。大津絵は「近江国大津の三井寺辺で売り出された民衆絵画。庶民の礼拝用の略体の仏画から始まり、道中土産として世に迎えられた」(広辞苑)。大津絵の絵師は正月三が日は仕事を休んだという。よって4日の書初めにこの句を詠んだのであろう。@巻渕彰