荷風は築地など中央区内にも住居を借りていたこともあり、築地、明石町あたりがしばしば登場します。
例えば、大正10(1921)年9月11日には
「秋の空薄く曇りて見るもの夢の如し。午後百合子訪ひ来りしかば、相携へて風月堂に往き晩餐をなし、掘割づたひに明石町の海岸を歩む。佃島の夜景銅版画の趣あり。石垣の上にハンカチを敷き手を把り肩を接して語る。冷露雨の如く忽にして衣襟の潤ふを知る。百合子の胸中問はざるもこれを察するに難からず。落花流水の趣あり。余は唯後難を慮りて悠々として迫らず。再び手を把つて水辺を歩み、烏森停車場に至りて別れたり。百合子は鶴見の旅亭崋山荘に寓する由なり。」とあります。
文語文の簡潔な表現が素晴らしいのですが、特に、「落花流水の趣あり」とか、「悠々として迫らず」とかエエなぁ・・・。
そして、この百合子という女性、「百合子本名は智子と云ふ」(10月18日)とありますが、この時の本名は「本間智子」、敗戦後いわゆるバターン死の行進事件の責任を問われて処刑された本間雅晴陸軍中将(最終階級)の妻でした。
なお、荷風と智子は、9月から10月にかけて関係が深まり、10月9日、「・・・花月に往く。・・・雨いよいよ甚しく遂に帰ること能はず。余と百合子と各室を異にして一宿することゝなる。・・・・・この後の事はこゝに記しがたし」、10月18日、「百合子草花一鉢を携えて来る。・・・・・・・」、10月19日、「百合子正午の頃去る。」10月20日には「・・・・百合子余が家に来りて宿す」、10月21日、「百合子と白木屋に赴き、陳列の洋画を見る。帰途また雨。百合子又余の家に宿す」、10月24日、「風雨、百合子終日吾家に在り」、11月5日、「百合子来る。風月堂にて晩餐をなし、有楽座に立寄り相携えて家に帰らむとする時、・・・・」と続いています。
こうしたその後の"展開"、そして智子が、大正10年12月16日に本間と離婚したことを知って、上記の9月11日の叙述を読むと、その興趣がさらに深まりますね。
そして、智子が本間と離婚した後も、12月18日、「・・・百合子と風月堂にて晩餐をなし、・・・・」、12月31日、「・・・夜百合子と相携えて銀座通歳晩の夜肆を見、・・・」、大正11(1922)年正月9日、「午後百合子来る」、正月17日、「夜百合子を平川町の家に訪ふ」等と続いています。