「三十間堀(さんじっけんぼり)」については、『ものしり百科』47頁で述べられている。
現在、「三十間堀跡」として、下記のような説明版が設置されている(一部漢数字を算用数字に変換)。
「三十間堀跡
所在地 中央区銀座1から8丁目地域
三十間堀は、現在の中央通りと昭和通りとの間にあった、京橋川から汐留川にいたる入堀です。慶長17年(1612)江戸の舟入堀を整備するため、西国大名に開削工事を命じて完成しました。名称は堀幅が三十間あったことに由来します。江戸時代、西岸は三十間堀1から8丁目、東岸は木挽町1から7丁目で、沿岸には舟運の荷揚場として河岸地がありました。江戸時代初めの「武州豊嶋郡江戸庄図(寛永江戸図)には、堀の東側に尾張徳川家と紀伊徳川家の蔵屋敷が並び、更に、京極・加藤・松平といった大名屋敷が並んでいる様子が描かれています。文政11年(1828)には両岸の河岸地が広げられ、堀幅は19間に狭められましたが、その後も舟が盛んに行き交い、多くの荷物の運搬に利用されていました。明治17年(1884)の地図からは、北は真福寺橋・豊蔵橋・紀伊国橋・豊玉橋・朝日橋・三原橋・木挽橋・出雲橋といった多くの橋が架けられていたことがわかります。三十間堀は、戦後灰燼の山を処理するために、昭和23年(1948)から埋め立てが進められ、同27年7月の完了してその姿を消しました。平成20年3月 中央区教育委員会」
荷風は、『新橋夜話』の一篇「見果てぬ夢」(明治43年)の中で、出雲橋から見た掘割の風景を次のように描いている。
「今方二人で歩いて来た横町を木挽町の方へ曲らうと思つて出雲橋の手前まで来た。深け渡る溝渠(ほりわり)の眺めはますます静に優しく見えて、沈みきつた水の面(おもて)には、寝静る両側の人家の屋根の倒影と共に、若し覗いたなら自分の姿さへ見られる様に思はれたので、彼は橋の上に立止つて欄干に身をよせかけた」(5-250)