荷風は、「南高橋」、「豊海橋」等についても記している。日本橋川に架かる豊海橋の完成は昭和2(1927)年9月、亀島川に架かる南高橋の完成は昭和7(1932)年3月である。
昭和9(1934)年6月14日、「箱崎町を過ぎ豊海橋を渡り越前堀河岸通を歩む。新川の川口に小祠あり。渡海神社といふ額をかけたり。如何なる神なるや知らず。河岸を歩み湊町を過ぎ南高橋といふ橋の上に立ちて大島行の汽船の波止場を離るゝさまを見る。乗合自動車にて銀座に至り銀座食堂に(はん)す」
豊海橋(2015年9月23日撮影、以下同じ)
「南高橋」については、6月26日にも記している。
昭和9(1934)年6月26日、「晴れてむしあつし。午後執筆。黄昏銀座に行き銀座食堂に夕飯を食す。七時過満月松坂屋の高き建物の横手に現はる。旧暦五月の望たるべし。歌舞伎座前より乗合自動車に乗り鉄砲洲稲荷のまえにて車より降り、南高橋をわたり越前堀倉庫の前なる物揚波止場に至り石に腰かけて名月を観る。石川島の工場には燈火煌々と輝き業務繁栄の様子なり。水上には豆州大島行の汽船二、三艘泛びたり。波止場の上には月を見て打語らふ男女二、三人あり。岸につなぎたる荷船には頻りに浪花節をかたる船頭の声す。歩みて蠣殻町のとんぼといふ家に至り一浴して家に帰る」
南高橋には、断腸亭日乗を引用した表示板があるが、昭和9年7月となっており、何故か月表示が誤っている。
南高橋
「渡海神社」とは、中央区新川にある稲荷神社。関東大震災・帝都大空襲のため、古文書焼失のため詳細を知ることができないが、埋立深川区の土地皆無時代は、東南隅畔地にあたり燈台および舟着所なるがゆえに、渡海(トカイ)と名に負う稲荷神社が、宝永元年(1704)に創祀されたと伝えられている。(東京都神社名鑑より)
「越前堀」は、現在の新川1-2丁目地域、旧町名。 江戸時代、この辺りは越前福井藩主、松平越前守の屋敷地であった。屋敷は三方が入堀に囲まれ、これが「越前堀」と通称されていた。明治になり、越前守の屋敷地が「越前堀」という町名となったが、堀は次第に埋め立てられていった。大正12(1923)年の関東大震災以後、一部を残して大部分が埋め立てられ、わずかに残っていた隅田川に近い部分も、戦後完全に埋め立てられた。その後町名が改められ、「新川」となって現在に至っている。今では往時をしのぶ「越前堀」の名は、ここの越前堀公園にみられるのみとなった。
「鉄砲洲稲荷神社」は、中央区湊にある稲荷神社。その創建年代は不詳であるが、承和8年(841年)の創建とも承久年間(1219-1221)の創建と伝えられる。寛永元年(1624)頃、稲荷橋南東詰に遷座、八丁堀稲荷と称していた。明治元年(1868)鉄砲洲が外国人居留地となったことから当地に遷座。
鉄砲洲稲荷神社と境内の富士塚