「断腸亭日乗」では、しばしば月を観るという記述が見られる。荷風は観月が好きであったらしい。例えば、下記のようである。
大正8(1919)年1月7日、「夕刻銀座に往く。三十間堀河岸通の夕照甚佳なり」、
大正8年8月7日、「半輪の月佳なり。明石町溝渠の景北壽が浮絵を見るが如し」
大正8年8月9日、「重ねて新富座にて人形を看る。・・・夜、月佳し」
大正8年8月10日、「晩涼水の如し。明石町佃の渡場に往きて月を観る」
現在の明石町佃の渡場跡から観た月(2015年9月28日撮影)
そして、昭和12年1月の「中央公論」に「町中の月」という随筆を寄せている(昭和10年冬稿、全集17-129)。まだ川が多かった頃の銀座、築地界隈が描かれているので、少し紹介しておきたい。
「燈火のつきはじめるころ、銀座尾張町の四辻で電車を降ると、夕方の澄みわたった空は、真直な広い道路に遮られるものがないので、時々まんまるな月が見渡す建物の上に、少し黄ばんだ色をして、大きく浮かんでゐるのを見ることがある。
時間と季節とによって、月は低く三越の建物の横手に見えることもある。或はずっと高く歌舞伎座の上、或は猶高く、東京劇場の塔の上にかゝってゐることもある。
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服部時計店の店硝子を後に、その欄干に倚りかかって、往来の人を見てゐる男や女は幾人もあるが、それは友達か何かを待ち合してゐるものらしく、名月の次第に高く昇るのを見てゐるのではない。
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わたしがたまたま静に月を観やうといふような―――それも成るべく河の水の流れてゐるあたりへ行って眺めやうと云ふ心持になるのは、大抵尾張町の空に、月の昇りかけてゐるのを見る夕方である。
東京の気候は十二月に入ると、風のない晴天がつづいて寒気も却て初冬のころよりも凌ぎよくなる。日は一日ごとに短くなり、町の燈火は四時ごろになると、早くも立迷ふ夕(せき)の底からきらめき初める。
わたしはいつも此時間に散歩を兼ねて、日常の必要品を購ひに銀座へ出る。それ故名月を観るため、築地から越前堀あたりまで歩くのも年の中で冬至の前後が最も多いことになるのである。」
「夕せき」、「夕あい」は、夕方のもや、夕嵐。 荷風の原文を読むためには漢和辞典を要する。