中央区観光協会オフィシャルブログ

中央区観光協会特派員ブログ

中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

執筆者一覧

>>このブログについて

最近のブログ記事

荷風随筆「町中の月」(2)

[CAM] 2015年10月 4日 18:00

  随筆「町中の月」には、鉄砲洲神社近辺の様子が詳しく描かれているので、もう少し引用させていただく。

 

「むかしは銀座通の東裏を流れてゐる三十間堀の河岸も、月を見ながら歩けるほど静であったが、今は自動車と酔漢とを避けるわづらわしさに堪えられない。築地川は劇場の燈火が月を見るには明るすぎる。鬨のわたし場は近年架橋の工事中で、近寄ることもできない。明石町の真中を流れてゐた掘割は、その両岸に茂った柳の並木と、沿岸の家の樹木とに、居留地のむかしを思出させた處であつたが、今は埋立てられて、乗合自動車の往復する広い道路となった。

 こんな有様なので、わたくしが月を見ながら歩く道順は、佃の渡し場から湊町の河岸に沿ひ、やがて稲荷橋から其向ひの南高橋をわたり、越前堀の物揚場に出る。

 稲荷橋は八丁堀の流が海に入るところ。鉄砲洲稲荷の傍にかゝつているので、その名を得たのであらう。この河口は江戸時代から大きな船の停泊した港で、今日でも東京湾汽船会社の桟橋と、船客の待合所とが設けられ、大島行の汽船がこの河筋ではあたりを圧倒するほど偉大な船体と檣(しょう・帆柱のこと)と煙突とを空中に聳かしてゐる。・・・・・・・・・・・・・・水の上は荷船や運送船の数も知れず、日の暮れかゝるころには、それ等の船ごとに舷(ふなばた)で焚くコークスの焔が、かすみ渡る夕靄のあひだに、遠く近く閃き動くさま、名所絵に見る白魚舟の篝火を思起させる。

 わたくしは稲荷橋に来て、その欄干に身をよせると、おのづからむかし深川へ通つた猪牙舟を想像し、つゞいて為永春水の小説春暁八幡佳年の一節を憶ひだすのである。・・・・・

 稲荷橋をわたると、筋違ひに電車の通る南高橋がかゝつてゐる。電車通りの灯火を避けて、河岸づたひに歩みを運ぶと、この辺は倉庫と運送問屋の外殆ど他の商店はないので、日が暮れると昼中の騒しさとは打つて変つて人通りもなく貨物自動車も通らない。石川島と向ひ合ひになつた岸には栄橋と、一の橋とがかゝつてゐて、水際に渡海神社といふ小さな祠がある。永代橋に近くなると、宏大な三菱倉庫が鉄板の戸口につけた薄暗い燈影で、却つてあたりを物淋しくしてゐる。そして倉庫の前の道路は、すぐさま広い桟橋につゞくので、あたりは空地でも見るやうにひろびろとしてゐる。

 わたくしはいつも此桟橋のはづれまで出て、太い杭に腰をかけ、ぴたぴた寄せて来る上潮の音をきゝながら月を見る......。」 (昭和10年冬稿)

 

   現在の永代橋近辺から観る月(2015年9月28日撮影)

 

  IMG_1803.JPG

 

  IMG_1804.JPG

 

 

 

「稲荷橋」は、八丁堀舟入堀の入口、八丁堀(桜川)に架かっていて、八丁堀と湊町(当時)を結んでいた。埋め立てで撤去され、今は橋標だけが残されている。
寛永年間(162443)の創架である。橋名の由来については、現中央区湊1丁目にある鉄砲洲稲荷神社は湊稲荷ともいい、江戸時代には全国から集まる荷物を荷揚げした湊に臨んでいた神社であった。元はこの湊のもっと近くに位置したため、橋名もそれにちなんだものである。震災復興事業では鋼タイドアーチ橋が架設されたが、桜川の埋め立てにともない撤去された。(中央区郷土史同好会)(ものしり百科、137頁)

 

「勝鬨橋」の竣工は昭和15年であるから(ものしり百科129頁)、昭和10年ころは工事中であった。