昨夜は少し寝つきが悪く、何とはなしに書棚から、昔読んだ五木寛之のエッセイ集を取り出して少し読み返した。
その第一作とも言うべき『風に吹かれて』、その冒頭で、当時の学生アルバイト作業について書いている。その頃、池袋の近くに住んでいたというが、専門紙(業界紙)の配達をやっており、その配達区域が日本橋から月島、佃島を含んでいた。その頃の生活が、『ゴキブリの歌』の中の「18年前の日記から」で述べられている。
昭和28(1953)年1月8日「配達を終り1時から4時半まで日本橋図書館。」
1月9日「日本橋図書館へ行き、映画史を読む。」
日本橋図書館を利用していたようである。
現在の日本橋図書館(日本橋小学校)
そして、当時の日記の「解説」として、当時の配達エリアについて、次のように述べている。
「先ず日本橋の事務所を出て、日本橋の手前を真直ぐ電車通りをつっ切ると、西川の次の通りを右に回り、丁度日本橋の電車通りと昭和通りにはさまれた道路をどこまでも真直ぐに、京橋に入って右にテアトル銀座を眺める所で左に昭和通りを横切り、配達区域に入る。まず新富町。ここには松竹の本社がある。
次に湊町、聖路加病院の明石町。
松竹本社の前の橋を渡って築地1丁目、2丁目にはビクターがある。
築地警察、京橋公会堂などのそばを通り東本願寺の前を通って、華僑ビルを配り東劇を回って小田原町、勝鬨橋を渡って月島に入る。
石川島重工業を経て又築地5丁目へ回り、中央市場を配って終わる。約3時間。これが私の責に区域であった。」
湊町は現在の湊1~3丁目、小田原町は現在の築地6~7丁目の旧町名である。(ものしり百科『旧町名の由来』168頁)。
『風に吹かれて』は昭和43(1968)年7月、『ゴキブリの歌』は昭和46(1971)年8月の発行である。今から45年前後の昔。そして、昭和28(1953)年というと、もう60年以上前の話である。
今の若者が読むなら、私たちの世代が永井荷風の「断腸亭日乗」を読むようなものであろう。