谷崎潤一郎は「瘋癲老人日記」の中で、卯木督助の日記の一節として、次のように書いている。(原文カタカナをかなに変換)
・・・今の東京をこんな浅ましい乱脈な都会にしたのは誰の所業だ、みんな田舎者の、ぽっと出の、百姓上りの、昔の東京の好さを知らない政治家と称する人間共のしたことではないか。日本橋や、鎧橋や、築地橋や、柳橋の、あの綺麗だった河を、お歯黒溝のやうにしちまったのはみんな奴等ではないか。隅田川に白魚が泳いでた時代のあることを知らない奴等の仕種ではないか。死んでしまえば何処に埋められたって構はないやうなものだけれども、今の東京のやうな不愉快な、自分に何の因縁もなくなってしまつた土地に埋められるのはいやだ。・・・・・・さう云ふ点では何と云っても京都が一番安全である。・・・・兎に角京都に埋めて貰へば東京の人も始終遊びに来る。「あ、こゝにあの爺さんの墓があつたつけな」と、通りすがりに立ち寄つて線香の一本も手向けてくれる。(19-139)
これは、言うまでもなく谷崎自身の心情だろうが、谷崎は昭和40(1965)年7月30日、79歳で亡くなり、京都市左京区鹿ヶ谷法然院に葬られている。
「瘋癲老人日記」は昭和36年月号から昭和37年5月号まで『中央公論』誌に発表されたものだから、まだ日本橋は高速道路で覆われてはいなかったはずである。上記では、川の水質汚染を嘆いてはいるものの、景観破壊については述べていない。
昭和8年の日本橋(中央区観光協会・移りゆく町の姿)
昭和32年の江戸川から日本橋(中央区観光協会・移りゆく町の姿)
現在の日本橋と日本橋川(2015年10月18日撮影)