『ものしり百科』では、109頁と146頁に説明があります。なお、147頁にある写真の掲示板は新しくなっていました(英文と絵画入り)。
ここは明治29年に完成した新佃島埋立地の一部で、当時は房総の山々も雲霞のうちに望むことのできた閑静な景勝地でした。
ここに坪井半蔵氏が建てた下宿旅館「海水館」は、文士、詩人、画家など多くの文化人が下宿しました。
明治40年、島崎藤村が『春』を、翌年には藤村の紹介で、小山内薫が『大川端』を執筆したのを始めとして、大正2~3年頃には、佐藤惣之助、木村荘八、竹久夢二、三木露風、日夏耿之助、松崎天民、横山健堂等がここに寄宿し、文士たちの集会もしばしば行われたといいます。
この碑は昭和43年、藤村の母校である明治学院大学の藤村研究部によって建てられたもので、裏には『春』の執筆由来の記が記されています。
藤村は、『春』執筆の準備から連載を終えるまでの間、明治40年(1907)9月から約1年を過ごしたようです。この「春」は夏目漱石の「坑夫」の後をうけて明治41年4月7日から朝日新聞に135回掲載されました。
執筆中、藤村はこの海水館の様子などを知人に「今年中に半分を―出来得べくんば三分の二位を書き置く必要より ・・・ 小生は閑静なる境地に身を置くべく考え ・・・ 昨日よりこの海岸にある宿へ引移り申候。この宿は友人にも告げず ・・・ 朝日新聞執筆のことも、未だ世上には発表いたさず候。二階の西隅にある一室にて、寺院の如き閑静と、旅舎の便利とを兼ね候」と伝えています。
現在の海水館跡近くから豊洲方面を臨む(2015年10月18日撮影)