「新富座跡」については、『ものしり百科』 61頁で述べられています。
新富座は万治3年(1660)木挽町5丁目(現在の銀座6丁目、昭和通り西側)に創建された「森田座」を引き継ぐ歌舞伎の劇場でした。
森田座は代々森田勘弥(かんや)が座元で、天保14年(1843)浅草猿若町(現在の台東区浅草)に移り、安政5年(1858)に「守田座」と改めました。明治五年(1872)には、守田座十二代勘弥が新富町に移転進出し、同8年(1875)に「新富座」と改称しました。
新富座は市川団十郎・尾上菊五郎・市川左団次などの名優を集めて積極的な興行を行いました。劇場は近代的な様式を取り入れた大規模な建物で「東京第一の劇場」と称され、周辺には歌舞伎関係者が多く居住し、一帯は芝居町となっていました。
明治22年(1889)に歌舞伎座が開場するまで芝居興行の中心的存在でしたが、大正12年(1923)の関東大震災で焼失しました。
明治期の錦絵には海鼠壁(なまこかべ)の上に絵看板を並べた大劇場の様子が見え、往時の繁栄ぶりがうかがえます。
(wikipediaからコピー、下の写真は明治15-16年頃。いずれもpublic domain 確認済)
その母が大の芝居好きであった荷風も、しばしば訪れています。例えば、
大正7年10月9日、「三十間堀春日にて昼餉をなし夕刻新富座楽屋に松莚子を訪ふ」
大正7年10月13日、「新富町の妓両三人を携えて新富座を見る」
大正8年7月7日、「夜新富座に往き岡本綺堂君作雨夜の曲を観る」
大正9年3月23日、「新富座を立見して家に帰る」
また、随筆「監獄署の裏」(明治42年)では、次のように書いています。
「(私の母は)江戸の生れで大の芝居好き、・・・・私は忘れません。母に連れられ、乳母に抱かれ、久松座、新富座、千歳座などの桟敷で、鰻飯の重詰を物珍しく食べた事、・・・」 (4-54)
久松座、千歳座は、明治座の旧称、明治26年に明治座に改称しています(ものしり百科;91頁)。