「ものしり百科」「第1章 中央区を歩く」を少しずつ踏破し、記録に残していきたいと思い立ちました。
とりあえずは、勝手知ったる「新富・明石町」からスタート。今日は3時半ごろ出発したものの、秋の夕暮れは早く、後半はもう日も落ちてきました。 また、写真、碑文の整理はかなり時間を食い、清貧老人の暇つぶしとはいえ、いつまで続くかおぼつかなく感じられますが、とりあえずは第1回。
いまさら新しい情報を提供できるわけではないことは言うまでもありませんが、ものしり百科も全ての地点の写真を掲載しているわけではないので、原則として全ての地点の現況を伝えると言う意味はあるかもしれません。なお、中央区教育委員会は、掲示板を英文を併記したものに取り換えつつあるようですが、下記には、一部以前のままのものもあります。悪しからず。
新富座跡(新富2―6-1)
「新富座は万治3年(1660)木挽町5丁目(現在の銀座6丁目、昭和通り西側)に創建された「森田座」を引き継ぐ歌舞伎の劇場でした。
森田座は代々森田勘弥(かんや)が座元で、天保14年(1843)浅草猿若町(現在の台東区浅草)に移り、安政5年(1858)に「守田座」と改めました。明5年(1872)には、守田座十二代勘弥が新富町に移転進出し、同8年(1875)に「新富座」と改称しました。
新富座は市川団十郎・尾上菊五郎・市川左団次などの名優を集めて積極的な興行を行いました。劇場は近代的な様式を取り入れた大規模な建物で「東京第一の劇場」と称され、周辺には歌舞伎関係者が多く居住し、一帯は芝居町となっていました。
明治22年(1889)に歌舞伎座が開場するまで芝居興行の中心的存在でしたが、大正12年(1923)の関東大震災で焼失しました。
明治期の錦絵には海鼠壁(なまこかべ)の上に絵看板を並べた大劇場の様子が見え、往時の繁栄ぶりがうかがえます。
平成16年3月
中央区教育委員会 」
靴業発祥の地(入船3-2-10)
「明治3年(1870)3月15日 西村勝三が 伊勢勝・造靴場を創建したのは 旧築地入船町5丁目1番のこの地であった。勝三は 佐倉藩の開明進取の風土に育ち 時の兵部大輔 大村益次郎の勧めと, 藩主堀田正倫 並びに渋澤栄一の支援を得て 靴工業を創成し これを大成した。斯くてこの地は 日本に於ける製靴産業の原点であるので こゝに建碑事績を記す
昭和60年(1985)3月15日
日本靴連盟 」
浅野内匠頭屋敷跡(明石町10・11地域一帯)
「常陸笠間(茨城県笠間市)藩主浅野長直(1610~72)は、正保2年(1645)、播磨赤穂(兵庫県赤穂市)に領地替えとなり、5万3,500石を領して内匠頭と称しました。子の長友の代に分与して5万石となります。
ここから北西の聖路加国際病院と河岸地を含む一帯8,900余坪の地は、赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった所で、西南二面は築地川に面していました。
忠臣蔵で名高い浅野内匠頭長矩(1665~1701)は、長友の子で、元禄14年(1701)、勅使の接待役に推されましたが、3月14日、その指南役であった吉良義央を江戸城中で刃傷に及び、即日、切腹を命ぜられました。この江戸屋敷および領地などは取り上げられ、赤穂藩主浅野家は断絶しました。
平成7年3月
中央区教育委員会」
芥川龍之介生誕の地(明石町10)
「明治16年(1883)ごろ、この付近(当時の京橋区入舟町8丁目1)に「耕牧舎」という乳牛の牧場がありました。作家芥川龍之介(1892~1927)は、明治25年3月1日、その経営者新原敏三の長男として、ここに生まれました。
龍之介は誕生後七ヶ月にして、家庭の事情から母の長兄芥川道章に引き取られて、本所区小泉町(現、墨田区両国3丁目)に移り、12歳の時、芥川家の養子になりました。
東京帝国大学在学中から文筆に親しみ、夏目漱石の門に入り、『地獄変』、『羅生門』、『河童』、『或阿呆の一生』など、多くの名作を遺しましたが、昭和2年7月24日、35歳で自害しています。
平成8年3月
中央区教育委員会 」