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文学で楽しむ中央区(その3)~関東郡代伊奈半左衛門忠順~

[之乎者也] 2015年11月 2日 10:00

気がつくともう11月。日差しのある昼間はまだ暖かく街歩きも楽しめますが、日没時間もぐっと早くなり、すっかり秋の夜長です。早く家に帰り、食事を終えての読書が楽しい季節になりました。今回は「文学で楽しむ中央区」第3弾として、関東郡代伊奈半左衛門忠順(ただのぶ)が主人公として活躍する『怒る富士』(新田次郎著)をご紹介します。Fuji1.jpg

 

時代は江戸時代中期の宝永年間(1704~1710)。書名からも明らかなように1707年11月23日、富士山が大爆発を起こすところから始まります。噴火は17日間続き、富士山麓は降り続いた砂や火山灰で埋まり、農民は田畑の耕作はもちろんのこと、生活を続けることも困難な状況に陥ります。このような状況で、関東郡代の伊奈半左衛門は富士山の大爆発の被害の後始末を任されることになります。半左衛門は、高いモラルで農民を救うべく奔走しますが、そんな農民の窮状を他所に、権力闘争にうつつを抜かす幕府の官僚により、せっかく工面した資金も横流しされ復興はなかなか進みません。半左衛門はこのような状況を見るに見かね、独断で幕府の駿府(現、静岡市)にある米倉を開き被災地域の飢民へ分配します。結果として彼はこの違法行為の責任を取って切腹するというお話です。

 

関東郡代という職責については、聞いただけではわかりにくいのですが、徳川幕府の代官職の中でも最高の家柄で、関八州を支配し大名もしのぐ権力を持っていたと言われます。初代伊奈忠次以来、利根川・荒川等の河川改修など土木技術を担当する実務的官僚として代々世襲で徳川家に仕え、半左衛門忠順は7代目になります(伊奈家の関東郡代職は、お家騒動で第12代忠尊が1792年に改易されるまで続きます)。小説では半左衛門の富士山大爆発被害後始末の顛末が中心になりますが、半左衛門の業績は、むしろ江戸において多く、5代将軍綱吉の50歳の誕生日を記念した永代橋の架橋(1698年)や深川、本所、浅草川などの治水関連工事を行っており、関東郡代役宅(屋敷)は浅草橋の南詰、現在の中央区馬喰町にありました。Fuji3.jpg小説では富士山噴火後の復興がストーリーの中心なので駿府や酒匂などの場面が多いですが、幕府との連絡や事務処理などの場面で馬喰町の役宅が登場します。秋の夜長、小説で江戸時代の浅草橋に思いを馳せてみるのは如何でしょうか。なお、浅草橋南詰の東日本橋派出所横には郡代屋敷の解説版が、北詰(台東区側)には浅草見附跡の碑が建っていますので、街歩きではこちらもご覧下さい。Fuji2.jpg

 

【郡代屋敷跡】

場所:中央区馬喰町2丁目

交通;JR馬喰町駅下車徒歩2分、JR・都営浅草線浅草橋駅下車徒歩5分

(東日本橋派出所横に「郡代屋敷跡」の解説板あり)