日本橋川に架かる鎌倉橋から下流方向を望むと、その左岸に水門を見ることができる。
これが旧龍閑川が日本橋川にそそぐ川口の跡である。
もっとも川といっても龍閑川は明暦の大火(1657)の後、防火帯として町人たちが自費で開削した堀川で、戦後の廃材処理のため昭和25年に埋め立てられるまでありました。
明暦の大火は本郷、小石川、麹町が出火元とされているが、小石川からの火の勢いは、日本橋などの人口が密集する町人地を焼きつくし死者は江戸の人口の4分の1以上の10万人以上といわれている。
神田が火元となると冬場の乾燥した北西の風に煽られ大火になりやすく、実際、神田佐久間町は「アクマ町」といわれるほど大火の火元となった場所であったのでこの場所でこの防火の川が掘られたのは必然だったのだろう。
この防火のための掘割が明治11年以降神田区と日本橋区の境界になり、戦後、埋め立てられた後も千代田区と中央区との境界となっている。
水門となっている部分の地表は水道局の施設があり、外堀通りを挟んで、かつての龍閑橋の欄干が保存されて
いる。 この橋は大正15年(1926)に架け替えられた、日本で初めての鉄筋コンクリートトラス橋である。
龍閑橋及び川の名前の由来はこの川の西側にあった町に、幕府の茶坊主(殿中接待役)の井上龍閑の家があったことから付けられた。
この龍閑橋の欄干のすぐ裏手の路地が龍閑川(堀)があったところであり、現在もこの路地が千代田区と中央区の区界になっている。
この路地を数百メートルほど進むとJR線のガードをくぐる。上には大正、昭和、平成の高架橋に、さらに東北・上越新幹線も通る。
神田駅の南側に位置し、今川小路と呼ばれるガード下には十数軒の飲み屋が軒を連ねている。
そして、この路地・龍閑川跡が中央通りと交わるのが今川橋である。(今川橋交差点とは少しずれている)
この橋の近くで小麦粉を水で溶いたものを型に入れて焼いた焼き菓子を売っていた。つまり、今川橋は今川焼き発祥の地なのである。
中央通りを渡り尚も進むと昭和通の手前に小公園があり龍閑川埋め立ての記念碑がある。昭和通は横断歩道橋を渡らなければならないが路地は続く。
人形町通りを渡り尚も進むと小伝馬町を過ぎたところで公園に突き当たり此処で旧龍閑川跡は終わる。
この公園、千代田区と中央区の区界らしく、中央区側は「龍閑児童遊園」千代田区側は「龍閑児童公園」と名前が異なっている(笑)
この公園の裏手から尚も路地は続くが龍閑川の跡ではなく、その証拠に?道の両側は共に千代田区東神田である。 この路地の一本南東側の道路(割と広い一方通行路)が区界になる。 中央区側は馬喰町1丁目だ。
やがて、靖国通りに出て、渡り左衛門橋通りが区界と思っていたら何故か1ブロック西側までが中央区だった。
神田川の左衛門橋、浅草橋、柳橋で台東区との区界となり、隅田川に出て、両国橋で墨田区との区界になり区界を歩く散歩は終わる。 小一時間の散歩でした。
あとは隅田川の下流からは晴海運河、東京湾に向かって江東区との区界となる。