アメリカ公使館跡の記念碑
「開港によって日本に駐在した初代アメリカ公使ハリスは、安政6年(1859)に現在の港区元麻布1・6の善福寺に公使館を開設しました。ついで、明治8年(1875)12月、築地居留地内のこの地に公館を新築し、はじめて形容を整えました。
後にこれが手狭となり、同23年3月、赤坂の現在地(アメリカ大使館)に移転しました。
この公使館跡には、5個の小松石の記念碑が残っています。大きさは、縦86~101センチメートル、横84~118センチメートル、厚さ18~34センチメートル、うち、2個には当時のアメリカの国章である盾、1個には星と鷲と盾、2個には五陵の星が刻まれています。
この記念碑は、築地の居留地時代を伝える貴重な遺品として、中央区民有形文化財に登録されています。
平成8年3月
中央区教育委員会 」
指紋研究発祥の地(明石町8-1先)
「ヘンリー・フォールズ住居の跡
ここは明治初年にあった築地居留地の18号地で英国人医師ヘンリー・フォールズ(1843~1930)が明治7年(1874)から同19年(1886)に至る滞日中に居住した所である
フォールズはスコットランド一致長老教会の宣教師として来日しキリスト教布教のかたわら築地病院を開いて診療に従事また日本人の有志とはかって盲人の保護教育にも尽力した
彼はわが国で行われていた指印の習慣に興味をもちたまたま発掘された土器に印象されていた古代人の指紋を発見しこれにヒントを得てここではじめて科学的な指紋の研究を行っ
た
明治13年(1880)10月英国の雑誌「ネーチュア」に日本から投稿した彼の論文は科学的指紋法に関する世界最初の論文といわれ その中で早くも犯罪者の個人識別の経験を発表し また指紋の遺伝関係にも言及している 明治44年(1911)4月1日わが国の警察においてはじめて指紋法が採用されてから満50年の今日 ここゆかりの地に記念碑を建立し その功績をたたえるものである」
明治学院発祥の地(明石町7-16)
「明治学院発祥の地
明治学院は1877年(明治10年)
ここ旧築地17番地に開設された
東京一致神学校を基とする
これを記念しこの碑を建てる」
カトリック築地教会聖堂 (明石町5-26)
「カトリック築地教会は、明治4年(1871)にパリ外国宣教会のマラン神父が、鉄砲洲の稲荷橋付近の商家を借りて開いた「稲荷橋教会」がその前身とされます。明治7年(1874)、神父は宣教会の名義で築地居留地35・36番を借り受け、ここに司祭館と聖堂を建てました。明治11年(1878)には、ここにゴシック様式の聖堂が献堂されますが、この聖堂は関東大震災で焼失し、現在の聖堂が昭和2年に再建されました。聖堂は石造りに見えますが、実は木造建築で、壁画をモルタル塗りとしています。
また、旧聖堂で使用された鐘は、1876年(明治9年)にフランスのレンヌで製作され、当時の司祭であるマレシャル神父から「江戸のジャンヌ・ルイーズ」と名付けられたもので、現在も教会に保管されています。
教会聖堂と鐘は、かつて外国人居留地のあった明石町に残された貴重な文化財として、中央区民文化財に登録されています。
平成13年3月
中央区教育委員会」
築地外国人居留地跡(明石町1-15 明石小学校)
江戸幕府は安政5年(1858)に欧米五カ国と修好通商条約を結び、横浜・神戸など五港の開港と江戸・大阪の開市を取り決めました。居留地は開港・開市の土地に設けられた条約締結国の外国人の居住や通商のための専用特別区でした。
江戸(東京)の開市は明治元年(1868)、明治政府になってからで、この条約に基づいて現在の明石町地域を築地居留地と定めました。
築地居留地は商館の多かった横浜や神戸などとは異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からの宣教師・医師・教師などの知識人が居住し教会や学校などを数多く開いて教育を行っていました。このため、築地居留地は日本の近代化に大きな影響を与えた一地域を形成していました。
明治に描かれた築地居留地の銅版画からは、洋風建築が建ち並び異国情緒あふれる街の様子をうかがうことができます。
平成15年3月
中央区教育委員会
雙葉学園発祥の地
「徳に於ては純真に
義務に於ては 堅実に
明治42年
SIMPLE DANS MA VERTU
FORTE DANS MON DEVOIR
Berceau de Futaba
1909 」