池田弥三郎著『日本橋私記』(昭和47年発行)を読み返した。「東京・大東京・下町」と題する昭和43年3月の文章でも、次のように書かれている。
>おそらく、江戸の下町は、山の手に対立するダウン・タウンを意味する呼称となる前には、もっと、誇り高い、お城のひざもと、江戸の城下町、しろしたのまちという意味だったに違いない。江戸の、本町、通町といった、生ッ粋の江戸の中の江戸、江戸の町の、城下町としての発祥地ということだったに違いないのである。しろしたとか、お城したとかいうことばはある特有の誇りをもっている。・・・・・・・・・
江戸の、その城したの町がした町である。だから、始まりは、江戸の下町はほんの狭い地域であって、大川の向こうの本所・深川はまだ海か、湿地帯であって町をなしておらず、神田も江戸のそと、浅草に到っては、江戸より古くからあったが、観音様の門前町で、一宿駅のような地区にすぎなかった。神田や浅草、下谷、それに本所・深川までが下町になってくるのは、ずっと後のことであって、日本橋あたりへ行くことを、浅草や本所深川の人々が「江戸へ行く」といっていた時分は下町は、お城したの、将軍様のおひざもとの町であって、決して、ダウン・タウンではなかった。(256)
そして、
>東京は、江戸以来、急速に、発達に発達を重ねている。そのそれぞれの段階で、注意深く考えてみないと、どうもうかつなことは言えないように思う。
と、結んでおられる。「江戸の範囲」についての、幕府の正式見解とも言うべき「朱引」(寺社奉行の管轄範囲)、「墨引」(町奉行の管轄下とされるエリア)が提示されたのは、文政元年(1818)であるから、家康入府以来230年近く経ってからのことである。「江戸の範囲」について論じる際、どの時点で、どの段階での話なのかよく考えた上でないと、うかつなことは言えないのである。