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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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日本橋川周辺散策コース(3)

[CAM] 2015年12月 5日 12:00

日本橋西河岸地蔵教会

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板絵着色 お千代の図額

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所在地 中央区八重洲1-2-5
日本橋西河岸地蔵寺教会
大正四年(1915)三月、本郷座で泉鏡花原作「日本橋」初演のおり、当時二十一歳の無名であった新派の俳優、花柳章太郎は、お千代の役を熱望し、劇と縁の深い西河岸地蔵堂(昭和二十四年、日本橋西河岸地蔵寺教会となる)に祈願をしました。「日本橋」は槍物町(現、日本橋三丁目、八重洲一丁目)の花街を舞台とした、いわゆる日本橋芸者の物語で、お千代は登場する芸妓のひとりでした。章太郎は、この劇でお千代役に起用されて好演し、これが出世役となりました。
ここに所蔵される「お千代の図額」は、二度目のお千代役である昭和十三年の明治座上演の際に、章太郎が奉納したものです。この絵を描いた小村雪岱は、「日本橋」の本の装丁や挿絵も担当した日本画家で、図額には章太郎と鏡花の句も添えられています。この「お千代の図額」は、地域にもゆかりの深いものとして、中央区民有形文化財に登録されています。(見学ご希望の方は、本堂まで申し出てください)
平成七年三月
中央区教育委員会

 

夢二・港屋ゆかりの地

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情熱と悲愁の画家であり、詩人でもあった竹久夢二(一八八四~一九三四)は、大正三年(一九一四)この地に「港屋絵草紙店」を開き、夢二のデザインによる版画、封筒、カード、絵葉書、手拭、半襟などを売った。商業美術家自身がその作品を商品化し販売する店を作ったという点で、「港屋」は日本の商業美術史上重要な意義を持つものであり、その存在を永く記録にとどめるため、ここに記念碑を設置し、故人の業績を讃えるものである。
なお当時の「港屋」の位置はこの碑の西約十三米、間口約二間(三,六米)であった。

まてど暮せど
来ぬひとを
宵待草の
やるせなさ
こよひは
月も出ぬさうな

 

一石橋

 

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一石橋の歴史
一石橋は寛永年間(1624~1647)またはそれ以前から存在した橋である。左の写真に見られる一石橋の姿は、大正十一年に架け替えられた当時の姿で、アーチ部分の石積み、重厚な石の高欄や親柱、照明などの細部に至るまでデザインの施された橋であり、当時の時代を感じさせる西洋的でモダンな印象をかもし出している。
一石橋の上流半分は、四十八年にスチール製の桁橋に架け替えられ、平成十一年には下流半分についても架け替え工事が行われて今日に至っている。大正時代当時の一石橋の姿を残しているのは上流側の大きい親柱と小さい親柱(当時の袖柱)のみとなり、残りの施設については、平成十一年の下流側架け替え工事に伴い、当時の姿と印象を残し継承する意味で新たに造り替えられている。

 

一石橋の親柱


所在地 八重洲1-11先
皇居外堀と日本橋川が分岐する地点に架橋された一石橋の歴史は古く、江戸初期の「武州豊島郡江戸庄図」にすでに木橋として見えています。当時は西河岸町と北鞘町とを結ぶ橋で、橋名の由来としては、北橋詰近くの本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰近くの呉服町には、幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって五斗、五斗+五斗で一石と名付けたと「江戸砂子」に見え、日本橋地区と神田地区を結ぶ橋として重要でした。
木橋としては最後となった明治六年(1873)の一石橋は長さ十四間、幅三間の橋でした。大正十一年(1922)に東京市道路局によって鉄骨コンクリート花崗岩張りのモダンな橋となり、堂々とした親柱四基をすえた白亜の橋となったのです。関東大震災にも落橋せず、その後も交通上の重要な橋として使われてきました。平成九年には大正十一年の橋本体は全て撤去されましたが、威風堂々とした花崗岩の親柱一基は残され、当時の姿を忍ばせています。
平成十四年に中央区民文化財に登録されました。
平成十五年三月
中央区教育委員会

 

一石橋迷子しらせ石標

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所在地 中央区八重洲一町目十一番地先
指 定 昭和十七年九月   旧跡
    昭和五十八年五月六日種別変更
江戸時代も後半に入る頃、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。
迷子がでた場合、町内が責任をもって保護することになっていたので、付近の有力者が世話人となり、安政四年(1857)にこれを建立したものである。
柱の正面には「満()よひ子の志()るべ」、右側には、「志()らする方」、左側には「たづぬる方」と彫り、上部に窪みがある。利用方法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙をはり、それを見る通行人の中で知っている場合は、その人の特徴を書いた紙を窪みに貼って迷子や尋ね人を知らせたという。いわば庶民の告知板として珍しい。このほか浅草寺境内と、湯島天神境内にもあったが、浅草寺のものは戦災で破壊された。
平成八年三月八日 建設
東京都教育委員会