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銀座1~4丁目・京橋3丁目ウォーキングコース(3)

[CAM] 2015年12月 9日 20:00

 

煉瓦銀座の碑、煉瓦とガス燈

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  明治五年二月二十六日
皇紀2532年 西暦1872年
銀座は全焼し延焼築地方面に及び焼失戸數四千戸と称せらる
東京府知事由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企劃建策し政府は國費を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築完成す
煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店街形成の濫觴となりたり
昭和三十一年四月二日

 


 (1987年記)
明治初期我が国文明開化のシンボルとして、 銀座には煉瓦建築がなされ、 街路照明は、ガス燈が用いられた。
床の煉瓦は、最近発掘されたものを、当時の ままの「フランス積み」で再現。ガス燈の燈柱は、 明治七年の実物を使用、燈具は忠実に復元。

 

三つ橋跡

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所在地 弾正橋 中央区京橋二・三丁目~八丁堀三・四丁目
白魚橋 中央区京橋三丁目~銀座一丁目
真福寺橋 中央区銀座一丁目~新富一丁目
ここから北方約三〇メートルの地点には、明治の末年まで、北東から楓(もみじ)川、北西から京橋川、東へ流れる桜川、南西へ流れる三十間堀が交差していました。この交差点に近い楓川に弾正(だんじょう)橋、京橋川に白魚橋、三十間堀に真福寺が架かり、この三橋を三つ橋と総称していました。
三つ橋は、すでに寛永九年(一六三二)作成といわれる『武州豊嶋郡江戸庄図』に図示されていますが、橋名の記入はなく、橋名についても幕末までいろいろ変遷がありました。
明治末に真福寺橋、昭和三十四年に白魚橋がいずれも河川の埋立てによって廃止され、弾正橋は昭和三十七年、高速道路工事によって現在の姿となりました。
平成八年三月
中央区教育委員会

 

弾正橋
弾正橋は古く江戸寛永年間には既に、楓川上に架かっているのが記されており、北八丁堀に島田弾正少弼屋敷があったのがその名の由来のようである。弾正橋は当時交差した堀川上に真福寺橋、白魚橋と共に三つの橋がコの字状に架けられていたことから、江戸名所図絵に「三ツ橋」として紹介されており、江戸における一つの名物であったようである。
その後たびたび架替えられたが、明治11年に工部省の手により、我が国最初の国産の鉄を使った橋として架替えられた。その時の橋は現在でも江東区富岡一丁目に保存され、昭和52年に国の重要文化財として指定され、平成元年にはアメリカ土木学会の栄誉賞も受ける等その歴史的貴重さを増している。
現在の橋は大正15年12月に復興局によって架替えられたもので、従来の弾正橋よりやや北側に位置している。その後昭和39年の東京オリンピックの時に、弾正橋の両側に公園が造成され、平成5年2月に公園と一体化された、くつろぎのある橋として再整備された。尚、公園にあるモニュメントは、明治11年、楓川に架かる弾正橋を象徴化して復元したものである。
平成5年2月 中央区

 

蜊河岸 (バックの建物は京橋プラザ)

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現在、ここから日本橋方面にのびている高速道路はかつての楓川で、川はこの先で京橋川と三十間堀に合流していました。そこは、それぞれの川筋に弾正橋・牛の草橋(白魚橋)・真福寺橋の三つの橋が架かっていたことから「三ツ橋」と呼ばれていました。蜊河岸は、その三ツ橋のひとつ、三十間堀に架かる真福寺橋の東岸、築地方面の河岸の呼び名です。江戸時代後期、この蜊河岸には江戸三大道場のひとつ、鏡新明智流の剣客桃井春蔵の「士学館」がありました。嘉永六年(一八五三)発行の平野屋版切絵図には、蜊河岸の築地側南端に、その名を確認することができます。
平成十二年三月
中央区教育委員会

 

歌舞伎座

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施設概要(歌舞伎座サイトから)

 

敷地 6,790㎡ (都市計画道路 約 190 ㎡を除く)

建築面積 5,985.2㎡

客席数 1808席(幕見席96席を除く)

舞台 間口91尺(27.573m)、高さ21尺(6.363m)

廻り舞台 直径60尺(18.18m)