於竹大日如来縁起
於竹大日如来は 寛永十七年(十八才の時)山形県庄内よりでて 当時の江戸大伝馬町馬込家の召使いとなるその行いは何事にも誠実親切で一粒の米 一きれの野菜にも決して粗末にせず貧困者に施した そのため於竹さんのいる勝手元からはいつも後光がさしていたという 出羽の国の行者乗蓮と玄良坊が馬込家をおとづれ「於竹さんは羽黒山のおつげによると大日如来の化身である」とつげた。主人は驚き勝手仕事をやめさせ 持仏堂を造り その後念仏三昧の道に入る これが江戸市中に拡がり 於竹さんを拝まうと来る人数知れずと言う
於竹さんの詠んだ歌に
手と足はいそがしけれど南無阿弥陀仏
口と心のひまにまかせて
延宝八年五月この世を去る 行年五十八
五代将軍綱吉公の母堂桂昌院の歌に
ありがたや光と共に行く末は
花のうてなに於竹大日
於竹さんが愛用し貧困者が市をなしたと言う有名な於竹井戸はこの地にあった
昭和四十六年五月吉祥
史蹟 於竹大日如来保存会
小津資料館
(Internet Museumサイトから)承応二年(1653年)小津清左衛門長弘が伊勢松阪より出府し、江戸大伝馬町(現在本社社屋の地)に紙商を開業して以来、時代とともに私たちの生活をより豊かに発展させてきた紙と小津の歴史の関わりを展示公開する「小津史料館」を本社社屋の二階に開設しております。
現在までに東京都中央区登録有形文化財として保存指定を受けた古文書千二百余点のうち約千点を順次展示公開しています。小津三百六十年の歴史をご覧ください。
馬込勘解由の碑 (べったら市の由来)
徳川家康による江戸城築城のおり、寳田村が城の拡張により移転のやむなきに至った。譜代の家臣である馬込勘解由が寳田村の鎮守の御本尊を奉安して住民と共に現在地に移転した。
この大業を成し遂げた功により、勘解由は江戸の筆頭名主となり年間役料は二百十両の最高であった。後に三伝馬取締役に出世し、徳川家繁栄を祈願された恵比壽神を授けられ、寳田神社に安置して江戸の平穏を祈願した。
御神体は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられ、以来商業の守り神として十月二十日の恵比壽講の前夜に市が開かれるようになった。
恵比壽講に使う鯛や神棚などと共に江戸名物の浅漬大根が売られ、売り子が大根に付いた糀を若い女性の着物に近づけ「ほら べったら べったら 買わないで通ると着物にくっ付くよ」と戯れたことからべったら市の名がついた。
徳川家康公江戸出府四〇一年を壽ぎ、ここに馬込勘解由の功績を讃え碑を建立するものである。
塩河岸
所在地 中央区日本橋本町2ー4先
かつて、この付近には、江戸初期に川を埋めてつくった堀の西堀留川がありました。この堀は、江戸橋から北に入り、この通りの東側で船入堀が西へと曲がっていました。カギ状に曲がったその先には、道場橋と雲母橋が架かり、その橋の間にあった北岸を塩河岸と呼びました。江戸時代、ここに塩問屋があったことから、そう呼ばれるようになったといいます。
『江戸名所図会』には、「伊勢町河岸通 米河岸 塩河岸」と題された挿絵が掲載され、往時の様子を知ることができます。明治十年には、東京府によって対面南岸が「南塩河岸」、北岸を「北塩河岸」と定められました。
平成十二年三月
中央区教育委員会
三浦按針屋敷跡
ウイリアム・アダムスは西暦1564年イギリスのケント州に生まれ、慶長5年(1600)渡来、徳川家康に迎えられて江戸に入り、この地に屋敷を給せられた。造船・砲術・地理・數學等に業績をあげ、ついで家康・秀忠の外交特に通商の顧問となり、日英貿易等に貢献し、元和6年(1620)4月24日平戸に歿した。
日本名三浦按針は相模國三浦辺見に領地を有し、またもと航海長であったことに由来し、この地も昭和初年まで安針町と呼ばれた。
熈代勝覧
(三井不動産サイトから) 名橋「日本橋」保存会および日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会は、日本橋を訪れる人々に街の魅力を実感していただくために、約17メートルにわたる「熈代勝覧」の複製絵巻を、東京メトロ「三越前」駅地下コンコース壁面に本日(平成21年11月30日)設置しました。
「熈代勝覧」絵巻とは、文化2年(1805年)頃の日本橋から今川橋までの大通り(現在の中央通り)を東側から俯瞰し、江戸時代の町人文化を克明に描いた貴重な絵巻物(作者不明)で、原画はベルリン国立アジア美術館に所蔵されています。今回の複製絵巻の設置により、日本でも「熈代勝覧」を鑑賞することが可能になりました。
「熈代勝覧」とは、「熈(かがや)ける御代の勝(すぐ)れたる景観」という意味で、本絵巻には「熈代勝覧 天」と記載されており、「天地人」の全三巻の可能性がありますが、他の巻は現在所在不明です。題字は当時著名な書家であった佐野東洲の描いたもので、絵巻には沿道にある88軒の問屋や店に加え、行き交う1,671人、犬20匹、馬13頭、牛4頭、猿1匹、鷹2羽ならびに屋号や商標が書かれた暖簾、看板、旗、などが克明に描かれています。なお、1806年の「丙寅(ひのえとら)の大火」で建物の多くは焼失したとされており、その直前の貴重な記録といえます。
名橋「日本橋」保存会および日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会は「熈代勝覧」を日本橋の歴史、文化を後世に伝える貴重な作品と捉え、ベルリン国立アジア美術館から制作、設置の許可を得て、江戸東京博物館による全体監修のもと複製いたしました。
複製絵巻の絵画部分は、江戸東京博物館が所蔵するカラーポジフィルムから約1.4倍に拡大した印刷用の画像データを作成し、原画を忠実に再現するため和紙にも鮮明な印刷が可能なプリンタを使用し、和紙8枚に出力した後、1枚仕立てに加工しました。絵画を囲うパネルには、建物や職業、商売など江戸時代の町人文化に関する解説を記載しています。