昭和7(1932)年4月には、地下鉄「三越前」駅が開業し、三越本店地下売場と連絡。
昭和10(1935)年10月、三越本店の増改築工事が完了、中央ホールが完成し、パイプオルガンを設置。
昭和7年10月3日、東京市は市政改革を行い、隣接5郡82町村を合併して35区とした。
「夜銀座に飯す。夕刊の新聞を見るに府下の町村東京市へ合併の記事および満州外交問題の記事紙面をうづむ」(『断腸亭日乗』)
銀座の大きな変化は、昭和通りの建設と晴海通りの拡幅であった。昭和通りの完成は昭和3年。当時東京市市長だった後藤新平の原案では道幅を108メートルとするものであったが、広い道路の重要性が当時は受け入れられず、結果現在の道幅に狭められた。また、狭い通りであった現在の晴海通りが拡幅された。
地下鉄銀座線の建設は震災後の大正14(1925)年に開始された。本来は新橋から浅草まで一挙に開通させることを目指していたものの、大震災後による不況のため、資金調達が困難になってしまい、当時は日本一の繁華街で高収益が見込める浅草から上野までの建設を先行させ、昭和2(1927)年に開業したが、昭和7(1932)年暮れには京橋まで、昭和9(1934)年には銀座まで延伸された。
『断腸亭日乗』では、昭和7年12月24日「地下鐵道京橋入口開通」、昭和9年3月3日「地下鐵道尾張町出入口この日より開通の由。乗客頗雑(とう)の様子なり」、昭和9年3月16日「五時過雷門に出で始めて地下鐵道に乗り銀座尾張町に至る。十五分間なり」と記されている。
昭和6年から9年にかけて『日乗』には、「銀座」が頻出してくる。荷風は、日が暮れると銀座に出かけ、食事をしたり、カフェーに行っている。
しかしながら、昭和9年頃には、銀座の繁栄には陰りが見え始めたようで(というよりも日本の戦時経済化と言うべきだろうが)、荷風は、昭和9年11月4日「銀座通の景況日を追うて物寂しく、今夜は十時頃夜店そろそろ仕舞かける有様なり。銀座通の景気最盛なりしは昭和6年より翌7年軍人暴行の頃なりしが如し。酒館の繁栄したるもその頃にて、去年あたりより俄にさびれ出したり」(『日乗』)と記している。
『断腸亭日乗』が素晴らしいのは、自分たちが実体験をできなかった「時代」の姿を生き生きと描いてくれているからである。