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「細雪」のなかの東京(3)

[CAM] 2015年12月17日 12:00

「細雪」から、東京について述べられた部分の引用を続ける。

 

 雪子とお春が宿まで送ってきてくれたので、皆で銀座へ散歩に出て洋食でも食べようということになったが、そんなら尾張町のローマイヤアという店へいらしってごらんなさりませと、女将が教えてくれたので、そこへ行ってお春にも相伴をさせてやり、帰りに夜店を冷やかしてから服部の角で二人に別れて、幸子と悦子とが浜屋へ歩いて戻ったのは九時過ぎであったろうか。・・・・・・・・・・・・・ 幸子は七時頃に、自分はとても寝られないと諦めて、悦子の障りを破らないようにそうっと起きて新聞を取り寄せ、築地川の見える廊下に出て、籐椅子にかけた。・・・・・・・・東京へ来てからは大朝や大毎で読むのとは違って、馴染のうすいこちらの紙面で読むせいか、記事が頭へはいりにくく、何となく親しみが湧いて来ないので、じきに新聞にも飽きて、ぼんやりと川の両岸の人通りを眺めていた。昔、娘の時分に父と泊っていた采女町の旅館と云うのも、つい川向うの、ここから今も屋根が見えているあの歌舞伎座の前をはいった横丁にあったので、このあたりは全然知らない土地ではなく、ちょっと懐しい気持もして、道玄坂とは一緒にならないが、でもあの頃には東京劇場とか演舞場とか云うようなものは建っていず、この川筋の景色も今とは可なり違っていた。・・・・・(394

 

 上京した幸子と悦子の母娘は、姉鶴子宅から築地にある浜屋という旅館へ移るのであるが、 この「浜屋」という旅館の場所については、築地川縁にあって、歌舞伎座の屋根が見える場所で、東京劇場、演舞場の近辺ということであるから、現在の東劇会館の裏側あたりではないかと推測される。    

 「ローマイヤ」レストランは、現在は日本橋で「銀座ローマイヤレストラン日本橋店」という名称で営業を行っているようで、そのサイトを見ると「大正14年。銀座で一番初めに本格的なドイツ料理店を始めたレストランローマイヤ。日本で最初にロースハムを作ったことで知られる創業者アウグスト・ローマイヤが提供する本物の味と心温まるおもてなしは、長い間銀座の名店として多くの人々に愛され続けてきました。その名は、昭和23年に発表された谷崎潤一郎の代表「細雪」にも登場しています」とある。 

                                                  

東劇ビル(写真は、2015年12月13日撮影)

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「東京劇場」は昭和5年(1930年)3月に演劇場として開業。築地にひときわ目立つ重厚な建物で知られ、歌舞伎や軽演劇が上演されていた。歌舞伎座が東京大空襲で焼亡し、昭和26年(1951年)に再建されるまで、東京の歌舞伎の中心であった。昭和25年(1950年)3月31日、東劇は演劇場から映画館に転身している。昭和50年(1975年)、高層ビルに改築され、現在では松竹本社が入っている。平成23年(2011年)3月1日、松竹は映画興行部門をシネマコンプレックス「MOVIX」を運営する松竹マルチプレックスシアターズに継承した。(Wikipedia)

采女橋

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このあたりは、江戸前期に松平采女正の屋敷があり、享保9年(1724年)の大火で焼けたあと火除地になって、俗に采女が原と呼ばれました。橋名の由来はここからきたものと思われます。
采女が原は、明治2年に采女町と称する市街地となり、銀座煉瓦街と築地の外国人居留地との間に位置して和洋混合の新興市街地が形成されていったようです。
震災復興時に架け替えられた現在の橋は、当時意匠的に優れていたといわれるアーチが採用されました。また橋の下は昭和37年に築地川から現在の高速道路に姿を変えました。
区では平成2年度に、幻のホテル"築地ホテル館"(明治元年、近代的な洋式ホテル第一号として誕生し、栄華を誇ったが明治5年焼失)と"銀座の柳"を題材にした意匠で高欄等を整備しました。
平成3年3月
東京都中央区

新橋演舞場(手前は采女橋)

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「新橋演舞場」は、大正14年(1925)に開場した(ものしり百科;48頁)