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蒟蒻島(霊岸島)

[CAM] 2015年12月26日 12:00

「蒟蒻島」については、荷風もふれている。

 

 昭和3(1928)年8月31日 「陰雲四散し碧空拭ふが如く烈日燬くが如し。・・・新大橋より乗合の汽船に乗り永代橋に往く、・・・・阿歌と蒟蒻島芸者屋の間を歩み茅場町薬師堂に賽し九段を過ぎて家に帰る。夜既に三更を過ぐ。」

 

「新大橋」は、明治44(1912)年に鉄骨橋に架け替えられた。現在の橋は昭和51(1976)年に竣工(ものしり百科83頁)。 したがって、当然のことながら、荷風が見た新大橋は現在のものではない。

 

「蒟蒻島」  現在の新川地区は、江戸時代には、霊岸島(霊厳島)と呼ばれていた場所で、霊岸橋際請負地は享保年間の埋め立てにより、富島町一・二丁目は弘化2年(1845)島西側の埋め立てによって成立したが、亀島川沿岸部は埋立が十分でなかったため足場が悪く、蒟蒻島と俗称された。 同地域には岡場所が形成され、所属する私娼は蒟蒻芸者と呼ばれた。

 

「霊巌島碑」 霊巌島の由来碑が昭和52年(1977)3月、霊巌島保存会によって建立されている。(設置場所は中央区新川1-12-1、越前堀児童公園内)

 

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当地区は、今から370-80年前、江戸の城下町が開拓されるころは、一面の沼地葭原であった。寛永元年(1624)に、雄誉霊巌上人が霊巌寺を創建して、土地開発の第一歩を踏み出し、同11年(1635)には、寺地の南方に、越前福井の藩主松平忠昌が27000余坪におよぶ浜屋敷を拝領した。邸の北、西、南3面に舟入堀が掘られて後に越前堀の地名の起こる原因となった。
明暦3年(1657)の江戸の大火で、霊巌寺は全焼して深川白河町に転じ、跡地は公儀用地となって市内の町々が替地として集団的に移ってきた。
明治大正年間には富島町、浜町、塩町、大川端町、川口町、長崎町、霊巌島町、銀町、東港町、新船松町、越前堀、南新堀の13町に分かれ、多額納税者も多数居住して検潮観測所もあり、湾内海運の発着地、倉庫地帯として下町商業の中心地であった。大正の大震災により全部焦土と化し、昭和6年(1931)7月区画整理によって、ゆかり深い町名も新川1、2丁目・霊巌島1、2丁目・越前堀1、2、3丁目と改称され、さらに昭和46年(1971)住居表示制度の実施により新川1、2丁目となった。江戸時代からの歴史を象徴する懐かしい遺跡も消えつつあるのを憂慮してこの記念碑を建立する。」

 

「茅場町薬師堂」 ものしり百科165頁