「細雪」からの引用を続ける。
>・・・・・・午後には四人で池の端の道明、日本橋の三越、海苔屋の山本、尾張町の襟円、平野屋、西銀座の阿波屋等を廻って歩いたが、あいにく残暑のぶり返した、風はあるけれども照り付ける日であったので、三越の七階、ジャアマンベーカリー、コロンバン等々、方々で一と休みしては渇きを癒さねばならなかった。お春は夥しい買物の包を持たされて、荷物の中から首を出したようになりながら、今日も顔じゅうに汗を沸かして三人の跡から附いて来たが、三人も皆めいめいに一つか二つ提げていた。 (417)
「尾張町の襟円」は、元和装小物店だと思われる。 「ゑり円ビル」(銀座4-6-10)として残っており、9Fには表示があるが、店はなくなっているか?
現在の「ゑり円ビル」(屋上にライトブルーの保険会社の広告塔があるビル。撮影は2015年12月20日)
「平野屋」は同社サイトでは、「1808年(文化5年)創業、江戸・日本橋において装剣具商を営んでおりました。・・・・・(しかし、明治維新後)装剣具が表看板では商いにならなくなりましたので、目貫、小柄、こうがい(これを三所物と称します)等の技術を生かした小物類へと扱い商品も変わり・・・・・その後、その後店を浜町に移し前記刀剣小道具、印籠、根付、刻煙草入れを商っておりました。・・・・・・大正12年の大震災に被災し、焼け跡の区画整理の結果、浜町1丁目あたりは店として不便になりましたので、昭和9年春、銀座8丁目(現在の金春通り)に移転しました。第2次世界大戦の戦火も逃れた古い建物も皆様に親しまれておりましたが、バブルの影響もあり、建て直しも不可能な状態になり、今は銀座6丁目外堀通りの土屋ビル5階で営業をいたしております。」ということである。現在はバッグ、財布、根付などを扱っているようである。
現在の「平野屋」(銀座6-4-5)
「阿波屋」は、現在、銀座6-4-15トニービルで、履物、和洋傘を扱っているよう。同社サイトによると、「明治4年(1871年)八官町(現銀座8丁目)と呼ばれていた地に創業致しました。以来品質の優れた履き易い履物にこだわり続けています。昭和初期、コルクの芯に牛革を巻いたぞうりを考案し好評を博しました。これは現在の革ぞうりの原型となっております。
又、谷崎潤一郎の「細雪」の一節に阿波屋の履物が登場するなど多くのお客様のご愛顧を得てまいりました。年季の入った職人が、当時ながら手作業で丹精込めて仕上げた「手縫いぞうり」は工芸品と呼ぶに相応しく今も主力商品として販売しております」とある。
この「阿波屋」については、雪子が悦子への東京土産として、履物を買って帰った際の状景にも登場する。
>「ふん、有難う」
「まだもう一つあるわ、その下の方見てごらん。── 」
「あった、あった、これやろ」
そう云って悦子は、銀座の阿波屋の包紙に包んである箱を取り出したが、中から出て来たのは紅いエナメルの草履であった。
「まあ、ええこと。穿き物はやはり東京やわなあ。── 」
と、幸子もそれを手に取って見ながら、
「これ、大事に直しといて、来月お花見に穿きなさいや」
「ふん。いろいろ有難う、姉ちゃん」 (222)
ここで、「大事に直しといて」というのは、関西弁で「大事にしまっておいて」の意。東京で使った際に、誤解される代表的例である(笑)。