「細雪」からの引用を続ける。
>・・・・・幸子は・・・・・・・・・資生堂の美容室へ出かけた。それというのは、ここのホテルの地階にも美容室はあるけれども、資生堂ではパアマネントをかけるのに、ゾートスと云う薬液を使う新しい遣り方をしている、それだと電気器具などを頭へ取り附ける面倒がなくて楽であるから、あそこでやってお貰いなさいと、昨夜光代に教えられたからであったが、行ってみると、十二三人もの先客が控えており、これでは何時間待たされるかも分らない形勢であった。・・・・・・・待合室に待っている間も、周囲がいずれも見も知らぬ純東京の奥様や令嬢ばかりで、誰一人話しかけてくれる者もいない。二人は小声で語り合うのさえ、上方訛を聞かれることが気が引けるので、さながら敵地にいる心地で身をすくめながら、あたりでぺちゃくちゃ取り交される東京弁の会話に、こっそり耳を傾けているよりほかはなかったが、今日は大変込むんだわね、と、一人が云うと、そりゃそうよ、今日は大安だもんだから御婚礼がとても多いのよ、美容院は何処も大繁昌よと、一人が云っている。・・・・・・(862)
「さながら敵地にいる心地で身をすくめながら」という表現が、関西人が東京へ出てきた際の心情をよく表しており、おもしろい。
>・・・・・・朝から銀座を歩き廻って尾張町の交叉点を三四回もあちらへ渡りこちらへ渡りしてから、浜作で昼飯を食べて、西銀座の阿波屋の前から道玄坂へタキシーを飛ばした。妙子はその日も、絶えずしんどいとか疲れたとか云いながら附いて来、浜作の座敷では座布団を枕にして足を投げ出したりしていたが、二人の姉がタキシーへ乗る時に、自分は行くことを差控えたい、本家は自分を勘当したことになっているから、 訪ねて行っては姉ちゃんが挨拶に困るであろうし、自分もそんな所へ行きたくない、と云い出した。・・・・(867)
現在の「浜作」(銀座7-7-4)
「浜作」のサイトでは「東京・銀座「本店浜作」は、大正13年大阪新町にて創業。
昭和3年、銀座でお客様の目の前で調理するカウンター割烹というスタイル<オープンキッチン>を東京に初めて取り入れた関西割烹料理店でございます」とある。
(訂正) 「"十文字の川から川へ、四つは架っていないけれども、三つは橋が架っていた"」というのは、距離的には三吉橋のことを言っているのだろう。三つ橋は少し距離がある」と述べたが、蒟蒻島(霊岸島)、新川からは、「三つ橋」が近いので、この「三つは橋が架かっていた」というのは「三つ橋」(ものしり百科;40頁)を指しているのだろう。