「ものしり百科」の第1章「中央区を歩く」のコースを踏破する計画を開始したものの、少し休止していました。新しい情報を追加できているわけでもないので、投稿はもう止めようかとも思ったのですが、「ものしり百科」も全てのシーンに写真を掲載しているわけでもないし、観光検定も近づいてきたようなので、受検者に少しは参考にもなるかと思い、今年も継続することにいたしました。
数寄屋橋公園は改修中です。銀座東急プラザが3月31日にオープンの予定。 写真撮影は1月4日16:00過ぎです。
数寄屋橋の碑
寛永六年(西暦一六二九年)江戸城外廊見附として数寄屋橋が初めて架けられた時は幅四間長三間の木橋であった 橋名は幕府の数寄屋役人の公宅が門外にあったのに依るという見附の城門枡形は維新の際に撤去され ついで大正大震災後の復興計画によって完成を見た近代的美観を誇る石橋が銀座の入口を扼することヽなった 爾来三十年首都交通の激増はこの界隈を更に変貌させた外壕上を高架車道が地下には地下鉄が走るようになって橋も姿を消し こヽは渾然たる大銀座の一劃となった 本会は茲に旧橋の遺材を以て碑を建て感慨深い東京文化の変遷を偲ぶよすがとした
一九五九年四月
数寄屋橋公園美化協力会
島崎藤村・北村透谷記念碑
所在地 中央区銀座五-一-十三
この泰明小学校は明治十一年六月に開校され、文芸家北村透谷や島崎藤村はその初期の卒業生であった。
透谷(一八六八~一八九四)は付近の実家から通学、明治十五年卒業し、同二十六年、藤村等と雑誌「文学界」を創刊し、近代浪漫主義の開拓者といわれた。
藤村(一八七二~一九四三)は明治十四年木曽馬籠より上京し、付近の姉の嫁先から通学し、しばらく帰郷ののち、別の縁家に移り、十七年卒業した。三十九年、日本自然主義文学の先駆的作品「破戒」によって作家の地位を確立し、さらに、「春」「夜明け前」などの大作を遺した。
昭和五十一年二月
中央区教育委員会
石川啄木歌碑
石川啄木が瀧山町の朝日新聞社に勤務したのは 明治四十二年三月から四十五年四月十三日二十七歳でこの世を去るまでの約三年間である この間彼は佐藤真一編集長を始めとする朝日の上司や同僚の厚意と恩情にまもられて 歌集「一握の砂」「悲しき玩具」 詩集「呼子と口笛」など多くの名作を残し庶民の生活の哀歓を歌うとともに時代閉塞の現状を批判した
銀座の人びとが啄木没後満六十年を記念して朝日新聞社跡に歌碑を建立したのはこの由緒によるものである
昭和四十八年四月一日
日本大学教授 文学博士
岩城之徳
(裏面)
京橋の瀧山町の由来
京橋の名は維新後の明治十一年に新たに制定された区名で昭和二十二年に現在の中央区に改められるまで七十年の間都民にしたしまれてきた区名です
瀧山町の名は江戸開府ののちこの地を開拓した名主瀧山藤吉の名を偲ぶもので昭和五年銀座六丁目に改称されるまで徳川時代から続いた由緒のある町名です 現在は中央区銀座六丁目と又新しく表示されております
昭和四十八年四月一日
歌の書体は歌集「一握の砂」初版本の活字を拡大して用いました
その前の工事中のビルの囲障壁面には、朝日新聞社跡と夏目漱石についての説明が記されています。