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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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銀座5~8丁目ウォーキングコース (2)

[CAM] 2016年1月 9日 12:00

 商法講習所跡 

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明治八年(一八七五年)この地に
商法講習所を開設す
これ現在の一橋大学の発端なり


昭和五十年九月二十四日
百年記念に当り
一橋大學之を建つ

 

 

金春屋敷跡

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所在地 中央区銀座八-六~八地域
江戸時代、幕府直属の能役者として知行・配当米・扶持を与えられていた家柄に、金春(こんぱる)・観世(かんぜ)・宝生(ほうしょう)・金剛(こんごう)の四家がありました。能楽は室町時代に足利幕府の保護奨励を受けて発達し、安土桃山時代には熱心な愛好者であった豊臣秀吉の保護を受け大いに興隆しました。
とくに、金春家は秀吉の強力な保護を受け、能楽の筆頭として召しかかえられました。江戸幕府も秀吉の方針を踏襲して能楽を保護し、金春・観世・宝生・金剛の四座を幕府の儀礼に深く関わる式楽と定めました。
元禄六年(一六九三)頃の江戸市中の状況を記した「国花万葉記」によると、金春大夫は山王町(現在の銀座)・観世大夫は弓町(現在の銀座)・宝生大夫は中橋大鋸町(現在の京橋)・金剛大夫は滝山町(現在の銀座)に屋敷を拝領していたとされています。
金春家は、寛永四年(一六二七)に屋敷を拝領したといわれ、寛永九年(一六三二)の江戸図『武州豊嶋郡江戸庄図』には「金春七郎」の名を確認することができ、現在の銀座八丁目六・七・八番地全体を占めていたように図示されています。後に、この屋敷は麹町善国寺寺谷(千代田区麹町三・四丁目)に移りましたが、跡地には芸者が集り花街として発展していき「金春芸者」といわれるようになりました。金春の名は、「金春湯」・「金春通り」などとして、今もこの地に残っています。
平成十五年三月
中央区教育委員会

 

銀座柳の碑 

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西条八十作詞、中山晋平作曲「銀座の柳」の歌碑。明治二十年頃街路樹として銀座の街に植えられた柳は街の発展と共に銀座の名物となった。その柳を歌ったこの歌は全国を風靡した。これを記念して昭和29年4月1日、銀座通聯合会がこの碑を建立した。

 

 

芝口御門の跡

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所在地 中央区銀座八-八・九・十付近
ここの南方、高速道路の下には、もと汐留川が流れ、中央通り(旧東海道)には、昭和三十九年まで新橋が架かっていました。
宝永七年(一七一〇)、朝鮮の聘使(へいし)の来朝に備えて、新井白石の建策にもとづきわが国の威光を顕示するため、この新橋の北詰に、現に外桜田門に見られるような城門が建設されて、芝口御門と呼ばれ、新橋は芝口橋と改称されました。
城門は橋の北詰を石垣で囲って枡形とし、橋のたもとの冠木門から枡形に入って右に曲がると、渡櫓があって堅固な門扉が設けられていました。しかしこの芝口御門は建築後十五年目の享保九年(一七二四)正月に焼失して以来、再建されず、石垣も撤去され、芝口橋は新橋の旧称に復しました。
昭和五十二年十月
中央区教育委員会

 

三十間堀

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所在地 中央区銀座八-十一-十三先
三十間堀は京橋川から汐留川にいたる横堀川でした。慶長十七年(一六一二)江戸の船入堀を整備するため、西国大名に開削工事を命じて完成しました。堀幅が三十間あったために三十間堀と呼ばれました。文政十一年(一八二八)に幅を十九間に狭めたといわれています。
江戸時代初期の『寛永江戸図』に三十間堀と見え、堀の南側は紀伊徳川家をはじめ、京極、加藤、松平などの諸大名の屋敷が並んでいました。延宝七年(一六七三)の図では西岸は三十間堀町一~八丁目、東岸は木挽町一~七丁目で、河岸場があり、舟運の荷物の揚げ場でした。
幕末から明治時代にかけて、船宿が並んで屋形船や屋根船が往来し、明治三十四年(一九〇一)の『新撰東京名所図会』にも、その賑わいの様子が描かれています。
明治十七年(一八八四)、三十間堀には真福寺橋、豊蔵橋、紀伊国橋、豊玉橋、朝日橋、三原橋、木挽橋、出雲橋等多くの橋が架けられていました。
三十間堀は戦後、灰燼の山を処理するために、昭和二十三年から埋立てが始まり、同二十七年七月に完了したあとは次第に商店やオフィスなどの立ち並ぶ街になりました。
平成十年三月
中央区教育委員会