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人形町を歩く(1)

[CAM] 2016年1月20日 18:00

玄冶店(げんやだな)跡

IMG_2578.JPG所在地 中央区日本橋人形町三丁目八番付近
江戸時代初期、新和泉町(人形町三丁目)のこの辺りは、幕府の医師であった岡本玄冶の拝領屋敷があったことから「玄冶店」と呼ばれてました。
岡本玄冶(一五八七~一六四五)は京都に生まれ、医術を曲直瀬(まなせ)道三(玄朔)に学びました。元和九年(一六二三)、京都に上洛中の徳川家光が江戸へ帰る際に侍医として招かれ、幕府の医師となりました。後に法眼から法印に叙せられて啓迪院と号しました。
三代将軍家光は岡本玄冶を重用し、数多くの功があったことが記録に残されています。『寛政重修諸家譜』には、寛永十年(一六三三)、家光が大病を病んだ時、諸医術をつくしても効験がなかった病を玄冶が薬を奉り平癒したとあり、この功により白銀二百枚を賜ったことが記されています。
岡本玄冶の拝領屋敷は『寛保沽券図』によると、「表京間六拾間 裏行京間二十五間 坪数千五百坪」とあります。当地にはその後、九代にわたって子孫が住み、明治維新で地所を奉還したと伝えられています。玄冶は正保二年(一六四五)に没し、広尾の祥雲寺(渋谷区)に葬られました。
玄冶店の名は、歌舞伎狂言作者の三代瀬川如皐(じょこう)が脚色し、嘉永六年(一八五三)に中村座で初演された「与話情浮名横櫛」の「源氏店(玄冶店)の場」の一幕で、お富と切られ与三郎の情話の舞台となり、その名が広く世に知られるようになりました。
平成十六年三月
中央区教育委員会


堺町・葺屋町芝居町跡

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 所在地 中央区日本橋人形町3丁目2~7番地域

 堺町は慶長年間(15961615)に沼地を埋め立てて起立されたといわれ、明暦2年(1656)のころには西半分の上堺町が葺屋町として分かれ、東半分の下堺町は堺町として残りました。

 江戸時代、この辺りには芝居小屋やそれらを取り巻く茶屋などが集まっており、大変賑わっていました。芝居小屋のなかには、江戸三座と呼ばれた官許の芝居のうち、歌舞伎を興した中村座と市村座(ほかに現銀座6丁目あたりの森田座)があり、このほかにも人形浄瑠璃の芝居小屋も多数ありました。江戸三座筆頭である中村座は京より江戸に移り住んだ猿若勘三郎が寛永元年(1624)に猿若座(後の中村座)を中橋南地(現京橋1丁目辺り)に創設し、これが現在につながる江戸歌舞伎の発祥となりました。寛永9年には禰宜町(現日本橋堀留町1丁目辺り)に、慶応4年(1651)には下堺町へと移転し、二代目勘三郎のとき、本姓の中村を名乗り「中村座」と改称しました。 この間、堺町では、上堺町において寛永10年に都座が、寛永11年には村山座(後の市村座)が創設されました。

 歌舞伎に先んじて京より下ってきたのが人形浄瑠璃でした。猿若座と同じ中橋の地において元和3年(1617)には興行が始まっていたようです。やはり寛永9年禰宜町移転を経て慶安4年下堺町に移されました。人形浄瑠璃の芝居小屋は、江戸、薩摩、丹波、天満、土佐、虎屋、肥前など、数多くありました。

 堺町・葺屋町の芝居小屋は、天保の改革により天保13年(1842)から翌14年にかけて、猿若1丁目から3丁目(現台東区浅草6丁目あたり)を起立してそこに移されるまで、二百年前後この地にありました。

 近年、日本橋人形町3丁目において発掘調査が行われ、茶屋や芝居に関する遺物も出土しています。

平成233

中央区教育委員会

  

大観音寺

IMG_2581.JPG鉄造菩薩頭
所在地 中央区日本橋人形町一ー一八ー九(大観音寺)
この菩薩頭は鋳鉄製で、総高一七〇センチメートル、面幅五四センチメートル。頭頂部のみは後に補修され鋳銅製。頭上には高さ五三センチメートルの高髻(こうけい)があり、後補の鋳銅製蓮華座に乗っています。
この像は、もと鎌倉の新清水寺にあった観音像でしたが、鎌倉時代の火災で崩れてしまいました。江戸時代に頭部が鶴岡八幡宮前の鉄井(くろがねのい)から掘り出され、明治初年の神仏分離の令に際し鎌倉から移され、明治九年(一八七六)大観音寺に安置されています。以後、本尊として今日に至りました。毎月十七日に開帳され、信仰を集めています。
中世造立になる関東特有の鉄仏のうちでも、鎌倉時代製作の優秀な作品で、昭和四十七年四月、都指定有形文化財に指定されています。
平成八年三月
中央区教育委員会

 

西郷隆盛屋敷跡(バックの建物は日本橋小学校)

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 谷崎潤一郎生誕の地

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所在地 中央区日本橋人形町一ー七ー一〇
谷崎潤一郎(一八八六~一九六五)は、明治十九年七月二十四日、この地にあった祖父経営の谷崎活版所で生まれました。
同二十五年、阪本尋常高等小学校に入学しました。その後、父の事業の失敗により、近くを転々としました。若くして文筆にすぐれ、東京帝国大学国文科を家庭の事情で中退したのち、第二次『新思潮』の同人となり、『刺青』、『少年』など耽美と背徳の世界を華麗に描いて、文芸界で名を成しました。
のち、日本的な伝統美に傾倒し、『蓼喰ふ虫』、『春琴抄』、『細雪』、『少将滋幹の母』などを遺しています。その間、昭和十二年、芸術院会員に推され、同二十四年には文化勲章を受賞しました。
平成七年三月
中央区教育委員会