蛎殻銀座跡
所在地 中央区人形町一丁目五・六・七・十七・十八番地域
銀座とは江戸時代の銀貨の製造工場である銀座会所と、通用銀貨の検査や銀地金の購入などを扱う銀座役所を総称した組織でした。そしてその経営は幕府の直営ではなく、御用達町人に委託しました。
江戸の銀座は慶長十七年(一六一二)に今の銀座二丁目の場所に置かれ、その百八十八年後の寛政十二年(一八〇〇)六月に、寛政改革の一つである銀座制度の大改正のため一旦廃止されました。
その年の十一月、改めてこの人形町の場所に幕府直営の度合いを強めた銀座が再発足しました。
当時この付近の地名が蛎殻町だったため、この銀座は人々から「蛎殻銀座」と呼ばれ、明治二年(一八六九)に新政府の造幣局が設置されるまでの六十九年間存続しました。
平成五年三月
中央区教育委員会
人形町通り
(人形町商店街協同組合サイトから)
「人形町」は江戸の中心日本橋にある歴史と伝統を持った粋な東京の下町です。
下町情緒の残る小粋な界隈は、 安産・子授けの神様 水天宮を中心に、七福神を祀る八つの神社を大切に保存する土地柄です。 町並みを見ながらの七福神めぐりは、 全行程2時間程度の歩きやすいコースで、 老若男女問わず人気があります。
甘酒横丁
(人形町商店街協同組合サイトから)
明治座や浜町公園にぬける甘酒横丁には、 江戸時代から続く伝統工芸店や、味な老舗も多く残ります。
水天宮を擁する土地がら、妊婦さんや家族連れも多く、 季節ごとに開かれる、せともの市や、人形市、べったら市は
今では感じることの少なくなった日本独特の暮らしの中にある季節感に触れられます。
漢方醫學復興の地
和田啓十郎先生は漢方医学がまさに絶滅せんとしたとき この地において衣を薄うし 食を粗にして得たる資金を以て明治四十三年 醫界之鐵椎を自費出版し 漢方医学の復興に立ち上がった
今や漢方再興の気運に際会し 先生の旧趾に碑を建て その偉業を顕彰するものである
昭和五十三年十月十日
日本東洋医学会
東亜医学協会
日本医史学会
賀茂真淵縣居(かものまぶちあがたい)の跡
都指定 大正七年四月
所在地 中央区日本橋浜町一ー四付近
古歌をとおして、わが国の古典学の基礎を築いた賀茂真淵(一六九七~一七六九)は、現在の浜松市の出身で、はじめ京に出て荷田春満(かだのあずまろ)に入門し、元文二年(一七三七)江戸に下り、田安宗武(徳川三卿の一人)に迎えられ、和学を講じた。
隠居後、浜町山伏井戸の東方に住み、縣居の翁と称し、「万葉考」「歌意考」「国意考」「祝詞考」等を著した。また歌会なども多く開き、その作品は今に伝えられている。
あがた居の茅生(ちふ)の露原かきわけて
月見に来つる都人かも
その旧跡は、この地点の北東約百メートルのあたりである。
平成元年七月
中央区教育委員会
明治座
(明治座公式サイトから)
明治座の歴史は、明治6年(1873)にさかのぼります。
その前身は、両国広小路(西両国)に在った富田角蔵・福之助・金太郎の、俗に言われる「三人兄弟の芝居」でした。この時代は座名などなく、よしず張りの芝居小屋で雨天には興行ができないので、俗に青天小屋とも呼ばれていました。
明治5年(1872)9月、東京府々令によって、それまでの三座(中村座・市村座・守田座=旧森田座)以外での興行が許可されるようになり、「三人兄弟の芝居」の金主(今で言う出資者)であった鈴木吉兵衛が劇場出願し、これが認められます。
翌年の明治6年(1873)4月28日、現在の久松警察署の南側に劇場が立てられ、喜昇座として開場しました。これが、明治座のはじまりです。